乏《とぼ》しい、潤《うるおい》のない山である。これが夏の日に照りつけられたら、山の奥でもさぞ暑かろうと思われるほど赤く禿《は》げてぐるりと自分を取り捲《ま》いている。そうして残らず雨に濡《ぬ》れている。潤い気《け》のないものが、濡れているんだから、土器《かわらけ》に霧を吹いたように、いくら濡れても濡れ足りない。その癖寒い気持がする。それで自分は首を引っ込めようとしたら、ちょっと眼についた。――手拭《てぬぐい》を被《かぶ》って、藁《わら》を腰に当てて、筒服《つつっぽう》を着た男が二三人、向うの石垣の下にあらわれた。ちょうど昨日《きのう》ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]の通った路を逆に歩いて来る。遠くから見ると、いかにもしょぼしょぼして気の毒なほど憐れである。自分も今朝からああなるんだなと、ふと気がついて見ると、人事《ひとごと》とは思われないほど、向《むこう》へ行く手拭《てぬぐい》の影――雨に濡《ぬ》れた手拭の影が情《なさけ》なかった。すると雨の間からまた古帽子が出て来た。その後《あと》からまた筒袖姿《つつそですがた》があらわれた。何でも朝の番に当った坑夫がシキ[#「シキ」に傍点]へ這入《はい》る時間に相違ない。自分はようやく窓から首を引き込めた。すると、下から五六人一度にどやどやと階下段《はしごだん》を上《あが》って来る。来たなと思ったが仕方がないから懐手《ふところで》をして、柱にもたれていた。五六人は見る間に、同じ出立《いでたち》に着更えて下りて行った。後《あと》からまた上がってくる。また筒袖になって下りて行く。とうとう飯場《はんば》にいる当番はことごとく出払ったようだ
こう飯場中活動して来ると、自分も安閑としちゃいられない。と云って誰も顔を御洗いなさいとも、御飯を御上がんなさいとも云いに来てくれない。いかな坊っちゃんも、あまり手持無沙汰《てもちぶさた》過ぎて困っちまったから、思い切って、のこのこ下りて行った。心は無論落ついちゃいないが、態度だけはまるで宿屋へ泊って、茶代を置いた御客のようであった。いくら恐縮しても自分には、これより以外の態度が出来ないんだから全くの生息子《きむすこ》である。下りて見ると例の婆さんが、襷《たすき》がけをして、草鞋《わらじ》を一足ぶら下げて奥から駆けて来たところへ、ばったり出逢《であ》った。
「顔はどこで洗うんですか」
と聞くと、婆さんは、ちょっと自分を見たなりで、
「あっち」
と云い捨てて門口《かどぐち》の方へ行った。まるで相手にしちゃいない。自分にはあっち[#「あっち」に傍点]の見当《けんとう》がわからなかったが、とにかく婆さんの出て来た方角だろうと思って、奥の方へ歩いて行ったら、大きな台所へ出た。真中に四斗樽《しとだる》を輪切にしたようなお櫃《はち》が据《す》えてある。あの中に南京米《ナンキンまい》の炊《た》いたのがいっぱい詰ってるのかと思ったら、――何しろ自分が三度三度一箇月食っても食い切れないほどの南京米なんだから、食わない前からうんざりしちまった。――顔を洗う所も見つけた。台所を下りて長い流の前へ立って、冷たい水で、申し訳のために頬辺《ほっぺた》を撫《な》でて置いた。こうなると叮嚀《ていねい》に顔なんか洗うのは馬鹿馬鹿しくなる。これが一歩進むと、顔は洗わなくっても宜《い》いものと度胸が坐ってくるんだろう。昨日《きのう》の赤毛布《あかげっと》や小僧は全くこう云う順序を踏んで進化したものに違ない。
顔はようやく自力で洗った。飯はどうなる事かと、またのそのそ台所へ上《あが》った。ところへ幸《さいわ》い婆さんが表から帰って来て膳立《ぜんだ》てをしてくれた。ありがたい事に味噌汁《みそしる》がついていたんで、こいつを南京米の上から、ざっと掛けて、ざくざくと掻《か》き込んだんで、今度《こんだ》は壁土の味を噛《か》み分《わけ》ないで済んだ。すると婆さんが、
「御飯《おまんま》が済んだら、初《はつ》さんがシキ[#「シキ」に傍点]へ連れて行くって待ってるから、早くおいでなさい」
と、箸《はし》も置かない先から急《せ》き立てる。実はもう一杯くらい食わないと身体《からだ》が持つまいと思ってたところだが、こう催促されて見ると、無論御代りなんか盛《よそ》う必要はない。自分は、
「はあ、そうですか」
と立ち上がった。表へ出て見ると、なるほど上《あが》り口《くち》に一人掛けている。自分の顔を見て、
「御前《おめえ》か、シキ[#「シキ」に傍点]へ行くなあ」
と、石でもぶっ欠くような勢いで聞いた。
「ええ」
と素直に答えたら、
「じゃ、いっしょに来ねえ」
と云う。
「この服装《なり》でも好いんですか」
と叮嚀《ていねい》に聞き返すと、
「いけねえ、いけねえ。そんな服装で這入《へえ》れるもんか。ここへ親分とこから一
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