た一人いた。もっとも始めて気がついた時は人間とは思わなかった。向うの柱の中途から、窓の敷居へかけて、帆木綿《ほもめん》のようなものを白く渡して、その幅のなかに包まっていたから、何だか気味が悪かった。しかしよく見ると、白い中から黒いものが斜《はす》に出ている。そうしてそれが人間の毬栗頭《いがぐりあたま》であった。――広い部屋には、自分とこの二人を除《のぞ》いて、誰もいない。ただ電気灯がかんかん点《つ》いている。大変静かだ、と思うとまた下座敷でわっと笑った。さっきの連中か、または作業を済まして帰って来たものが、大勢寄ってふざけ散らしているに違ない。自分はぼんやりして布団のある所まで帰って来た。そうして裸体《はだか》になって、襯衣を振るって、枕元にある着物を着て、帯を締めて、一番しまいに敷いてある布団を叮嚀《ていねい》に畳んで戸棚へ入れた。それから後《あと》はどうして好いか分らない。時間は何時《なんじ》だか、夜《よ》はとうていまだ明けそうにしない。腕組をして立って考えていると、足の甲がまたむずむずする。自分は堪《こら》え切れずに、
「えっ畜生」
と云いながら二三度小踊をした。それから、右の足の甲で、左の上を擦《こす》って、左の足の甲で右の上を擦って、これでもかと歯軋《はぎしり》をした。しかし表へ飛び出す訳にも行かず、寝る勇気はなし、と云って、下へ降りて、車座の中へ割り込んで見る元気は固《もとよ》りない。さっき毒突《どくづ》かれた事を思い出すと、南京虫よりよっぽど厭《いや》だ。夜が明ければいい、夜が明ければいいと思いながら、自分は表へ向いた窓の方へ歩いて行った。するとそこに柱があった。自分は立ちながら、この柱に倚《よ》っ掛った。背中をつけて腰を浮かして、足の裏で身体を持たしていると、両足がずるずる畳の目を滑《すべ》ってだんだん遠くへ行っちまう。それからまた真直《まっすぐ》に立つ。またずるずる滑《すべ》る。また立つ。まずこんな事をしていた。幸い南京虫《ナンキンむし》は出て来なかった。下では時々どっと笑う。
いても立ってもと云うのは喩《たとえ》だが、そのいても立ってもを、実際に経験したのはこの時である。だから坐るとも立つとも方《かた》のつかない運動をして、中途半端に紛《まぎ》らかしていた。ところがその運動をいつまで根気《こんき》にやったものか覚えていない。いとど疲れている上に、なお手足を疲らして、いかな南京虫でも応《こた》えないほど疲れ切ったんで、始めて寝たもんだろう。夜が明けたら、自分が摺《ず》り落ちた柱の下に、足だけ延ばして、背を丸く蹲踞《うずくま》っていた。
これほど苦しめられた南京虫も、二日三日と過《た》つにつれて、だんだん痛くなくなったのは妙である。その実、一箇月ばかりしたら、いくら南京虫がいようと、まるで米粒でも、ぞろぞろ転がってるくらいに思って、夜はいつでも、ぐっすり安眠した。もっとも南京虫の方でも日数《ひかず》を積むに従って遠慮してくるそうである。その証拠には新来《きたて》のお客には、べた一面にたかって、夜通し苛《いじ》めるが、少し辛抱していると、向うから、愛想《あいそ》をつかして、あまり寄りつかなくなるもんだと云う。毎日食ってる人間の肉は自然鼻につくからだとも教えたものがあるし、いや肉の方にそれだけの品格が出来て、シキ[#「シキ」に傍点]臭くなるから、虫も恐れ入るんだとも説明したものがある。そうして見るとこの南京虫と坑夫とは、性質《たち》がよく似ている。おそらく坑夫ばかりじゃあるまい、一般の人類の傾向と、この南京虫とはやはり同様の心理に支配されてるんだろう。だからこの解釈は人間と虫けらを概括《がいかつ》するところに面白味があって、哲学者の喜びそうな、美しいものであるが、自分の考えを云うと全くそうじゃないらしい。虫の方で気兼《きがね》をしたり、贅沢《ぜいたく》を云ったりするんじゃなくって、食われる人間の方で習慣の結果、無神経になるんだろうと思う。虫は依然として食ってるが、食われても平気でいるに違ない、もっとも食われて感じないのも、食われなくって感じないのも、趣《おもむき》こそ違え、結果は同じ事であるから、これは実際上議論をしても、あまり役に立たない話である。
そんな無用の弁は、どうでもいいとして、自分が眼を開けて見たら、夜は全く明け放れていた。下ではもうがやがや云っている。嬉しかった。窓から首を出して見ると、また雨だ。もっとも判然《はっきり》とは降っていない。雲の濃いのが糸になり損《そく》なって、なっただけが、細く地へ落ちる気色《けしき》だ。だからむやみに濛々《もうもう》とはしていない。しだいしだいに雨の方に片づいて、片づくに従って糸の間が透《す》いて見える。と云っても見えるものは山ばかりである。しかも草も木も至って
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