。しかしいずれも薄汚いものばかりである。自宅《うち》で敷いていたのとはまるで比較にならない。自分は一番上に乗ってるのを二枚、そっとおろした。そうして、電気灯の光で見た。地《じ》は浅黄《あさぎ》である。模様は白である。その上に垢《あか》が一面に塗りつけてあるから、六分方《ろくぶがた》色変りがして、白い所などは、通例なら我慢のできにくいほどどろんと、化けている。その上すこぶる堅い。搗《つ》き立ての伸《の》し餅《もち》を、金巾《かなきん》に包んだように、綿は綿でかたまって、表布《かわ》とはまるで縁故がないほどの、こちこちしたものである。
 自分はこの布団を畳の上へ平《ひらた》く敷いた。それから残る一枚を平く掛けた。そうして、襯衣《シャツ》だけになって、その間に潜《もぐ》り込んだ。湿《しめ》っぽい中を割り込んで、両足をうんと伸ばしたら踵《かかと》が畳の上へ出たから、また心持引っ込ました。延ばす時も曲げる時も、不断のように軽くしなやかには行かない。みしりと音がするほど、関節が窮屈に硬張《こわば》って、動きたがらない。じっとして、布団の中に膝頭《ひざがしら》を横たえていると、倦怠《だるい》のを通り越して重い。腿《もも》から下を切り取って、その代りに筋金入《すじがねい》りの義足をつけられたように重い。まるで感覚のある二本の棒である。自分は冷たくって重たい足を苦《く》に病《や》んで、頭を布団の中に突っ込んだ。せめて頭だけでも暖《あったか》にしたら、足の方でも折れ合ってくれるだろうとの、はかない望みから出た窮策であった。
 しかしさすがに疲れている。寒さよりも、足よりも、布団の臭《にお》いよりも、煩悶《はんもん》よりも、厭世《えんせ》よりも――疲れている。実に死ぬ方が楽《らく》なほど疲れ切っていた。それで、横になるとすぐ――畳から足を引っ込まして、頭を布団に入れるだけの所作《しょさ》を仕遂《しと》げたと思うが早いか、眠《ね》てしまった。ぐうぐう正体なく眠てしまった。これから先きは自分の事ながらとうてい書けない。……
 すると、突然針で背中を刺された。夢に刺されたのか、起きていて、刺されたのか、感じはすこぶる曖昧《あいまい》であった。だからそれだけの事ならば、針だろうが刺《とげ》だろうが、頓着《とんじゃく》はなかったろう。正気の針を夢の中に引摺《ひきず》り込んで、夢の中の刺を前後不覚の床《とこ》の下に埋《うず》めてしまう分の事である。ところがそうは行かなかった。と云うものは、刺されたなと思いながらも、針の事を忘れるほどにうっとりとなると、また一つ、ちくりとやられた。
 今度は大きな眼を開《あ》いた。ところへまたちくりと来た。おやと驚く途端《とたん》にまたちくりと刺した。これは大変だとようやく気がつきがけに、飛び上るほど劇《はげ》しく股《もも》の辺《あたり》をやられた。自分はこの時始めて、普通の人間に帰った。そうして身体中《からだじゅう》至る所がちくちくしているのを発見した。そこでそっと襯衣《シャツ》の間から手を入れて、背中を撫《な》でて見ると、一面にざらざらする。最初指先が肌に触れた時は、てっきり劇烈な皮膚病に罹《かか》ったんだと思った。ところが指を肌に着けたまま、二三寸引いて見ると、何だか、ばらばらと落ちた。これはただ事でないとたちまち跳《は》ね起きて、襯衣一枚の見苦しい姿ながら囲炉裏《いろり》の傍《そば》へ行って、親指と人差指の間に押えた、米粒ほどのものを、検査して見ると、異様の虫であった。実はこの時分には、まだ南京虫《ナンキンむし》を見た事がないんだから、はたしてこれがそうだとは断言出来なかったが――何だか直覚的に南京虫らしいと思った。こう云う下卑《げび》た所に直覚の二字を濫用《らんよう》しては済まんが、ほかに言葉がないから、やむを得ず高尚な術語を使った。さてその虫を検査しているうちに、非常に悪《にく》らしくなって来た。囲炉裏の縁《ふち》へ乗せて、ぴちりと親指の爪で圧《お》し潰《つぶ》したら、云うに云われぬ青臭い虫であった。この青臭い臭気《におい》を嗅《か》ぐと、何となく好い心持になる。――自分はこんな醜い事を真面目《まじめ》にかかねばならぬほど狂違染《きちがいじ》みていた。実を云うと、この青臭い臭気を嗅ぐまでは、恨《うらみ》を霽《は》らしたような気がしなかったのである。それだから捕《と》っては潰し、捕っては潰し、潰すたんびに親指の爪を鼻へあてがって嗅いでいた。すると鼻の奥へ詰って来た。今にも涙が出そうになる。非常に情《なさけ》ない。それだのに、爪を嗅ぐと愉快である。この時二階下で大勢が一度にどっと笑う声がした。自分は急に虫を潰すのをやめた。広間を見渡すと誰もいない。金さんだけが、平たくなって静かに寝ている。頭も足も見えない。そのほかにたっ
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