んの身体《からだ》は一枚の布団《ふとん》の中で、小さく平ったくなっている。気の毒なほど小さく平ったく見えた。その内《うち》唸《うな》り声《ごえ》も、どうにか、こうにかやんだようだから、また顔の向《むき》を易《か》えて、囲炉裏の中を見詰めた。ところがなんだか金さんが気に掛かってたまらないから、また横を向いた。すると金さんはやっぱり一枚の布団の中で、小さく平ったくなっている。そうして、森《しん》としている。生きてるのか、死んでるのか、ただ森としている。唸られるのも、あんまり気味の好いもんじゃないが、こう静かにしていられるとなお心配になる。心配の極《きょく》は怖《こわ》くなって、ちょっと立ち懸けたが、まあ大丈夫だろう、人間はそう急に死ぬもんじゃないと、度胸を据《す》えてまた尻を落ちつけた。
 ところへ二三人、下からどやどやと階下段《はしごだん》を上がって来た。もう飯を済ましたんだろうか、それにしては非常に早いがと、心持上がり段の方を眺《なが》めていると、思も寄らないものが、現れた。――黒か紺《こん》か色の判然《はっきり》しない筒服《つつっぽう》を着ている。足は職人の穿《は》くような細い股引《ももひき》で、色はやはり同じ紺である。それでカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げている。のみならず二人《ふたあり》が二人とも泥だらけになって、濡《ぬ》れてる。そうして、口を利《き》かない。突っ立ったまま自分の方をぎろりと見た。まるで強盗としきゃあ思えない。やがて、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を抛《ほう》り出すと、釦《ボタン》を外《はず》して、筒袖《つつっぽう》を脱いだ。股引も脱いだ。壁に掛けてある広袖《ひろそで》を、めりやすの上から着て、尻の先に三尺帯をぐるりと回しながら、やっぱり無言のまま、二人してずしりずしりと降りて行った。するとまた上がって来た。今度《こんだ》のも濡れている。泥だらけである。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を抛り出す。着物を着換える。ずしんずしんと降りて行く。とまた上がって来る。こう云う風に入代り、入代りして、何でもよほど来た。いずれも底の方から眼球《めだま》を光らして、一遍だけはきっと自分を見た。中には、
「手前《てめえ》は新前《しんめえ》だな」
と云ったものもある。自分はただ、
「ええ」
と答えて置いた。幸《さいわ》い今度はさっきのようにむやみには冷やかされずに、まあ無難《ぶなん》に済んだ。上がって来るものも、来るものも、みんな急いで降りて行くんで、調戯《からか》う暇がなかったんだろう。その代り一人に一度ずつは必ず睨《にら》まれた。そうこうしている内に、上がって来るものがようやく絶えたから、自分はようやく寛容《くつろ》いだ思いをして、囲炉裏《いろり》の炭の赤くなったのを見詰めて、いろいろ考え出した。もちろん纏《まと》まりようのない、かつ考えれば考えるほど馬鹿になる考えだが、火を見詰ていると、炭の中にそう云う妄想《もうぞう》がちらちらちらちら燃えてくるんだから仕方がない。とうとう自分の魂が赤い炭の中へ抜出して、火気《かっき》に煽《あお》られながら、むやみに踊をおどってるような変な心持になった時に、突然、
「草臥《くたび》れたろうから、もう御休みなさい」
と云われた。
 見ると、さっきの婆さんが、立っている。やっぱり襷掛《たすきがけ》のままである。いつの間《ま》に上がって来たものか、ちっとも気がつかなかった。自分の魂が遠慮なく火の中を馳《か》け廻って、艶子《つやこ》さんになったり、澄江《すみえ》さんになったり、親爺《おやじ》になったり、金さんになったり、――被布《ひふ》やら、廂髪《ひさしがみ》やら、赤毛布《あかげっと》やら、唸《うな》り声《ごえ》やら、揚饅頭《あげまんじゅう》やら、華厳《けごん》の滝やら――幾多無数の幻影《まぼろし》が、囲炉裏の中に躍《おど》り狂って、立ち騰《のぼ》る火の気の裏《うち》に追いつ追われつ、日向《ひなた》に浮かぶ塵《ちり》と思われるまで夥《おびただ》しく出て来た最中に、はっと気がついたんだから、眼の前にいる婆さんが、不思議なくらい変であった。しかし寝ろと云う注意だけは明かに耳に聞えたに違ないから、自分はただ、
「ええ」
と答えた。すると婆さんは後《うし》ろの戸棚を指《さ》して、
「布団《ふとん》は、あすこに這入《はい》ってるから、独《ひとり》で出して御掛けなさい。一枚三銭ずつだ。寒いから二枚はいるでしょう」
と聞くから、また
「ええ」
と答えたら、婆さんは、それ限《ぎり》何にも云わずに、降りて行った。これで、自分は寝てもいいと云う許可を得たから、正式に横になっても剣突《けんつく》を食う恐れはあるまいと思って、婆さんの指図通《さしずどお》り戸棚を明けて見ると、あった。布団がたくさんあった
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