撲《すもう》をとって暮らしていると云っても差支《さしつかえ》なかろう。それで、みんなが立ち尽したあとから、自分も立った。そうしてやっぱり窓の方へ歩いて行った。黒い頭で下は塞《ふさ》がっている上から背伸《せえのび》をして見下《みおろ》すと、斜《はす》に曲ってる向《むこう》の石垣の角から、紺《こん》の筒袖《つつそで》を着た男が二人《ふたあり》出た。あとからまた二人出た。これはいずれも金盥を圧《お》しつぶして薄《うす》っ片《ぺら》にしたようなものを両手に一枚ずつ持っている。ははあ、あれを叩くんだと思う拍子に、二人は両手をじゃじゃんと打ち合わした。その不調和な音が切っ立った石垣に突き当って、後《うしろ》の禿山《はげやま》に響いて、まだやまないうちに、じゃららんとまた一組が後《あと》から鳴らし立てて現れた。たと思うとまた現れる。今度は金盥を持っていない。その代り木唄――さっきは木唄と云った。しかしこの時、彼らの揚げた声は、木唄と云わんよりはむしろ浪花節《なにわぶし》で咄喊《とっかん》するような稀代《きたい》な調子であった。
「おい金公《きんこう》はいねえか」
と、黒い頭の一つが怒鳴《どな》った。後向《うしろむき》だから顔は見えない。すると、
「うん金公に見せてやれ」
とすぐ応じた者がある。この言葉が終るか、終らない間《ま》に、五つ六つの黒い頭がずらりとこっちを向いた。自分はまた何か云われる事と覚悟して仕方なしに、今までの態度で立っていると、不思議にも振り返った眼は自分の方に着いていない。広い部屋の片隅に遠く走った様子だから、何物がいる事かと、自分も後を追っ懸《か》けて、首を捻《ね》じ向けると、――寝ている。薄い布団《ふとん》をかけて一人寝ている。
「おい金州《きんしゅう》」
と一人が大きな声を出したが、寝ているものは返事をしない。
「おい金しゅう起きろやい」
と怒鳴《どなり》つけるように呼んだが、まだ何とも返事がないので、三人ばかり窓を離れてとうとう迎《むかえ》に出掛けた。被《かぶ》ってる布団《ふとん》を手荒にめくると、細帯をした人間が見えた。同時に、
「起きろってば、起きろやい。好いものを見せてやるから」
と云う声も聞えた。やがて横になってた男が、二人の肩に支えられて立ち上った。そうしてこっちを向いた。その時、その刹那《せつな》、その顔を一目見たばかりで自分は思わず慄《ぞっ》とした。これはただ保養に寝ていた人ではない。全くの病人である。しかも自分だけで起居《たちい》のできないような重体の病人である。年は五十に近い。髯《ひげ》は幾日も剃《そ》らないと見えてぼうぼうと延びたままである。いかな獰猛《どうもう》も、こう憔悴《やつれ》ると憐《あわ》れになる。憐れになり過ぎて、逆にまた怖《こわ》くなる。自分がこの顔を一目見た時の感じは憐れの極《きょく》全く怖《こわ》かった。
病人は二人に支えられながら、釣られるように、利《き》かない足を運ばして、窓の方へ近寄ってくる。この有様を見ていた、窓際の多人数《たにんず》は、さも面白そうに囃《はや》し立てる。
「よう、金《きん》しゅう早く来いよ。今ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]が通るところだ。早く来て見ろよ」
「己《おら》あジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]なんか見たかねえよ」
と病人は、無体《むたい》に引き摺《ず》られながら、気のない声で返事をするうちに、見たいも、見たくないもありゃしない。たちまち窓の障子《しょうじ》の角《かど》まで圧《お》しつけられてしまった。
じゃじゃん、じゃららんとジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]は知らん顔で石垣の所へ現れてくる。行列はまだ尽きないのかと、また背延《せいの》びをして見下《みおろ》した時、自分は再び慄とした。金盥《かなだらい》と金盥の間に、四角な早桶《はやおけ》が挟《はさ》まって、山道を宙に釣られて行く。上は白金巾《しろかなきん》で包んで、細い杉丸太を通した両端《りょうたん》を、水でも一荷《いっか》頼まれたように、容赦なく担《かつ》いでいる。その担いでいるものまでも、こっちから見ると、例の唄《うた》を陽気にうたってるように思われる。――自分はこの時始めてジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]の意味を理解した。生涯《しょうがい》いかなる事があっても、けっして忘れられないほど痛切に理解した。ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]は葬式である。坑夫、シチュウ[#「シチュウ」に傍点]、掘子《ほりこ》、山市《やまいち》に限って執行される、また執行されなければならない一種の葬式である。御経の文句を浪花節《なにわぶし》に唄《うた》って、金盥の潰《つぶ》れるほどに音楽を入れて、一荷《いっか》の水と同じように棺桶《かんおけ》をぶらつかせて――最後に、半死半生の病人を、無理矢
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