く、見栄《みえ》も糸瓜《へちま》も棒に振って、いきなり、お櫃《はち》からしゃくって茶碗へ一杯盛り上げた。その手数《てかず》さえ面倒なくらい待ち遠しいほどであったが、例の剥箸《はげばし》を取り上げて、茶碗から飯をすくい出そうとする段になって――おやと驚いた。ちっともすくえない。指の股《また》に力を入れて箸をうんと底まで突っ込んで、今度こそはと、持上げて見たが、やっぱり駄目だ。飯はつるつると箸の先から落ちて、けっして茶碗の縁《ふち》を離れようとしない。十九年来いまだかつてない経験だから、あまりの不思議に、この仕損《しくじり》を二三度繰り返して見た上で、はてなと箸《はし》を休めて考えた。おそらく狐に撮《つま》まれたような風であったんだろう。見ていた坑夫共はまたぞろ、どっと笑い出した。自分はこの声を聞くや否や、いきなり茶碗を口へつけた。そうして光沢《つや》のない飯を一口|掻《か》き込んだ。すると笑い声よりも、坑夫よりも、空腹よりも、舌三寸の上だけへ魂が宿ったと思うくらいに変な味がした。飯とは無論受取れない。全く壁土である。この壁土が唾液《つばき》に和《と》けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった。
「面《つら》あ見ろ。いい様《ざま》だ」
と一人が云うと、
「御祭日《おさいじつ》でもねえのに、銀米《ぎんまい》の気でいやがらあ。だから帰《けえ》れって教《おせ》えてやるのに」
と他《ほか》のものが云う。
「南京米《ナンキンめえ》の味も知らねえで、坑夫になろうなんて、頭っから料簡違《りょうけんちげえ》だ」
とまた一人が云った。
自分は嘲弄《ちょうろう》のうちに、術《じゅつ》なくこの南京米《ナンキンまい》を呑み下した。一口でやめようと思ったが、せっかく盛り込んだものを、食ってしまわないと、また冷かされるから、熊の胆《い》を呑む気になって、茶碗に盛っただけは奇麗《きれい》に腹の中へ入れた。全く食慾のためではない。昨日《きのう》食った揚饅頭《あげまんじゅう》や、ふかし芋《いも》の方が、どのくらい御馳走《ごちそう》であったか知れない。自分が南京米の味を知ったのは、生れてこれが始てである。
茶碗に盛っただけは、こう云う訳で、どうにか、こうにか片づけたが、二杯目は我慢にも盛《よそ》う気にならなかったから、糸蒟蒻《いとごんにゃく》だけを食って箸を置く事にした。このくらい辛抱して無理に厭《いや》なものを口に入れてさえ、箸を置くや否や散々に嘲弄された。その時は随分つらい事と思ったが、その後《ご》日に三度ずつは、必ずこの南京米に対《むか》わなくっちゃならない身分となったんで、さすがの壁土も慣《な》れるに連《つ》れて、いわゆる銀米と同じく、人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味と心得るようになってからは、剥膳《はげぜん》に向って逡巡《しりごみ》した当時がかえって恥ずかしい気持になった。坑夫共の冷かしたのも万更《まんざら》無理ではない。今となると、こんな無経験な貴族的の坑夫が一杯の南京米を苦に病《や》むところに廻《めぐ》り合わせて、現状を目撃したら、ことに因《よ》ると、自分でさえ、笑うかも知れない。冷かさないまでも、善意に笑うだけの価値《ねうち》は十分あると思う。人はいろいろに変化するもんだ。
南京米の事ばかり書いて済まないから、もうやめにするが、この時自分の失敗《しくじり》に対する冷評は、自然のままにして抛《ほう》って置いたなら、どこまで続いたか分らない。ところへ急に金盥《かなだらい》を叩《たた》き合せるような音がした。一度ではない。二度三度と聞いているうちに、じゃじゃん、じゃららんと時を句切《くぎ》って、拍子《ひょうし》を取りながら叩き立てて来る。すると今度は木唄《きやり》の声が聞え出した。純粋の木唄では無論ないが、自分の知ってる限りでは、まあ木唄と云うのが一番近いように思われる。この時冷評は一時にやんだ。ひっそりと静まり返る山の空気に、じゃじゃん、じゃららんが鳴り渡る間を、一種異様に唄《うた》い囃《はや》して何物か近づいて来た。
「ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]だ」
と一人が膝頭《ひざがしら》を打たないばかりに、大きな声を出すと、
「ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]だ。ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]だ」
と大勢口々に云いながら、黒い塊《かたまり》がばらばらになって、窓の方へ立って行った。自分は何がジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]なんだか分らないが、みんなの注意が、自分を離れると同時に、気分が急に暢達《のんびり》したせいか、自分もジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]を見たいと云う余裕ができて、余裕につれて元気も出来た。つくづく考えるに、人間の心は水のようなもので、押されると引き、引くと押して行く。始終手を出さない相
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