ろう。できるにきまってるとまで感じた。だから、いくら誰が何と云っても帰るまい、きっとこの社会で一人前以上になって成功して見せる。――随分思い切ってつまらない考えを起したもんだが、今から見ても、多少論理には叶《かな》っているようだ。そこでこの坑夫の忠告には謹《つつし》んで耳を傾《かたぶ》けていたが、別段先方の注文通りに、では帰りましょうと云う返事もしなかった。そのうちいったん静まりかけた愚弄《ぐろう》の舌《した》がまた動き出した。
「いる気なら置いてやるが、ここにゃ、それぞれ掟《おきて》があるから呑《の》み込んで置かなくっちゃ迷惑だぜ」
と一人が云うから、
「どんな掟ですか」
と聞くと、
「馬鹿だなあ。親分もあり兄弟分《きょうでえぶん》もあるじゃねえか」
と、大変な大きな声を出した。
「親分たどんなもんですか」
と質問して見た。実はあまりがみがみ云うから、黙っていようかしらんとも思ったけれども、万一掟を破って、あとで苛《ひど》い目に逢《あ》うのが怖《こわ》いから、まあ聞いて見た。すると他《ほか》の坑夫が、すぐ、返事をした。
「しようのねえ奴だな。親分を知らねえのか。親分も兄弟分も知らねえで、坑夫になろうなんて料簡違《りょうけんちげ》えだ。早く帰《けえ》れ」
「親分も兄弟分もいるから、だから、儲《もう》けようたって、そう旨《うま》かあ行かねえ。帰れ」
「儲かるもんか帰《けえ》るが好い」
「帰れ」
「帰れ」
しきりに帰れと云う。しかも実際自分のためを思って帰れと云うんじゃない。仲間入をさせてやらないから出て行けと云うんである。さぞ儲《もう》けたいだろうが、そうは問屋で卸《おろ》さない、こちとらだけで儲ける仕事なんだから、諦《あきら》めて早く帰れと云うんである。したがってどこへ帰れとも云わない。川の底でも、穴の中でも構わない勝手な所へ帰れと云うんである。自分は黙っていた。
この形勢がこのままで続いたら、どんな事にたち至ったか思いやられる。敵はこの囲炉裏《いろり》の周囲《まわり》ばかりにゃいない。さっきちょっと話した通り、向うの方にも大きな輪になって、黒く塊《かたま》っている。こっちの団体だけですら持ち扱っているところへ、あっちの群勢《ぐんぜい》が加勢したら大事《だいじ》である。自分は愚弄《ぐろう》されながらも、時々横目を使って、未来の敵――こうなると、どれもこれも人間でさえあれば、敵と認定してしまう。――遠方にはおるが、そろそろ押し寄せて来そうな未来の敵を、見ていた。かように自分の心が、左右前後と離《はな》れ離れになって、しかも独立ができないものだから、物の後《あと》を追掛《おっか》け、追ん廻わしているほど辛《つら》い事はない。なんでも敵に逢《あ》ったら敵を呑《の》むに限る。呑む事ができなければ呑まれてしまうが好い。もし両方共困難ならぷつりと縁を截《き》って、独立自尊の態度で敵を見ているがいい。敵と融合する事もできず、敵の勢力範囲外に心を持ってく事も出来ず、しかも敵の尻を嗅《か》がなければならないとなると、はなはだしき損となる。したがってもっとも下等である。自分はこう云う場合にたびたび遭遇して、いろいろな活路を研究して見たが、研究したほどに、心が云う事を聞かない。だからここに申す三策は、みんな釈迦《しゃか》の空説法《からぜっぽう》である。もし講釈をしないでも知れ切ってる陳説《ちんせつ》なら、なおさら言うだけが野暮《やぼ》になる。どうも正式の学問をしないと、こう云う所へ来て、取捨の区別がつかなくって困る。
自分が四方八方に気を配って、自分の存在を最高度に縮小して恐れ入っていると、
「御膳《ごぜん》を御上がんなさい」
と云う婆さんの声が聞えた。いつの間《ま》に婆さんが上がって来たんだか、自分の魂が鳩の卵のように小さくなって、萎縮《いしゅく》した真最中だったから、御膳の声が耳に入るまではまるで気がつかなかった。見ると剥《は》げた御膳《おぜん》の上に縁《ふち》の欠けた茶碗が伏せてある。小《ち》さい飯櫃《めしびつ》も乗っている。箸《はし》は赤と黄に塗り分けてあるが、黄色い方の漆《うるし》が半分ほど落ちて木地《きじ》が全く出ている。御菜には糸蒟蒻《いとごんにゃく》が一皿ついていた。自分は伏目になってこの御膳の光景を見渡した時、大いに食いたくなった。実は今朝《けさ》から水一滴も口へ入れていない。胃は全く空《から》である。もし空でなければ、昨日《きのう》食った揚饅頭《あげまんじゅう》と薩摩芋《さつまいも》があるばかりである。飯の気《け》を離れる事約二昼夜になるんだから、いかに魂が萎縮しているこの際でも、御櫃《おはち》の影を見るや否や食慾は猛然として咽喉元《のどもと》まで詰め寄せて来た。そこで、冷かしも、交《ま》ぜっ返しも気に掛ける暇《いとま》な
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