ぼ坑夫だって、親の胎内から持って生れたままの、人間らしいところはあるだろうくらいに心得ていたんだから、この寸法に合わない笑声を聞くや否や、畜生奴《ちくしょうめ》と思った。俗語に云う怒《おこ》った時の畜生奴じゃない。人間と受取れない意味の畜生奴である。今では経験の結果、人間と畜生の距離がだいぶん詰ってるから、このくらいの事をと、鈍い神経の方で相手にしないかも知れないが、何しろ十九年しか、使っていない新しい柔かい頭へこのわる笑がじんと来たんだから、切《せつ》なかった。自分ながら思い出すたびに、まことに痛わしいような、いじらしいような、その時の神経系統をそのまま真綿に包《くる》んで大事にしまって置いてやりたいような気がする。
この悪意に充《み》ちた笑がようやく下火になると、
「御前《おめえ》はどこだ」
と云う質問が出た。この質問を掛けたものは、自分から一番近い所に坐っていたから、声の出所《でどころ》は判然《はっきり》分った。浅黄色《あさぎいろ》の手拭染《てぬぐいじ》みた三尺帯を腰骨の上へ引き廻して、後向《うしろむ》きの胡坐《あぐら》のまま、斜《はす》に顔だけこっちへ見せている。その片眼は生れつきの赤んべんで、おまけに結膜《けつまく》が一面に充血している。
「僕は東京です」
と答えたら、赤んべんが、肉のない頬を凹《へこ》まして、愚弄《ぐろう》の笑いを洩《も》らしながら、三軒置いて隣りの坑夫をちょいと顎《あご》でしゃくった。するとこの相図を受けた、願人坊主《がんにんぼうず》が、入れ替ってこんな事を云った、
「僕だなんて――書生《しょせ》ッ坊《ぼ》だな。大方《おおかた》女郎買でもしてしくじったんだろう。太え奴だ。全体《ぜんてえ》この頃の書生ッ坊の風儀が悪くっていけねえ。そんな奴に辛抱が出来るもんか、早く帰《けえ》れ。そんな瘠《やせ》っこけた腕でできる稼業《かぎょう》じゃねえ」
自分はだまっていた。あんまり黙っていたので張合《はりあい》が抜けたせいか、わいわい冷かすのが少し静まった。その時一人の坑夫――これは尋常な顔である。世間へ出しても普通に通用するくらいに眼鼻立が調《ととの》っていた。自分は、冷かされながら、眼を上げて、黒い塊《かたまり》を見るたびに、人数《にんず》やら、着物やら、獰猛《どうもう》の度合やらをだんだん腹に畳み込んでいたが、最初は総体の顔が総体に骨と眼でできた上に獣慾の脂《あぶら》が浮いているところばかり眼に着いて、どれも、これも差別がないように思われた。それが三度四度と重なるにつけて、四人五人と人相の区別ができるに連れて、この坑夫だけが一際《ひときわ》目立って見えるようになった。年はまだ三十にはなるまい。体格は倔強《くっきょう》である。眉毛《まみえ》と鼻の根と落ち合う所が、一段奥へ引っ込んで、始終《しじゅう》鼻眼鏡で圧《お》しつけてるように見える。そこに疳癪《かんしゃく》が拘泥《こうでい》していそうだが、これがために獰猛の度はかえって減ずると云っても好いような特徴であった。――この坑夫が始めてこの時口を利《き》いた。――
「なぜこんな所へ来た。来たって仕方がないぜ。儲《もう》かる所じゃない。ここにいる奴あ、みんな食詰《くいつめ》ものばかりだ。早く帰るが好かろう。帰って新聞配達でもするがいい。おれも元はこれで学校へも通《かよ》ったもんだが、放蕩《ほうとう》の結果とうとう、シキ[#「シキ」に傍点]の飯を食うようになっちまった。おれのようになったが最後もう駄目だ。帰ろうたって、帰れなくなる。だから今のうちに東京へ帰って新聞配達をしろ。書生はとても一月《ひとつき》と辛抱は出来ないよ。悪い事は云わねえから帰れ。分ったろう」
これは比較的|真面目《まじめ》な忠告であった。この忠告の最中は、さすがの獰悪派《どうあくは》もおとなしく交《まぜ》っ返しもせずに聞いていた。その惰性で忠告が済んだあとも、一時は静であった。もっともこれはこの坑夫に多少の勢力があるんで、その勢力に対しての遠慮かも知れないと勘づいた。その時自分は何となく心の底で愉快だった。この坑夫だって、ほかの坑夫だって、人相にこそ少しの変化はあれ、やっぱり一つ穴でこつこつ鉱塊《あらがね》を欠いている分の事だろう。そう芸に巧拙《こうせつ》のあるはずはない。して見ると、この男の勢力は全く字が読めて、物が解って、分別があって――一口に云うと教育を受けたせいに違ない。自分は今こんなに馬鹿にされている。ほとんど最下等の労働者にさえ歯《よわい》されない人非人《にんぴにん》として、多勢《たぜい》の侮辱を受けている。しかし一度この社会に首を突込《つっこ》んで、獰猛組《どうもうぐみ》の一人となりすましたら、一月二月と暮して行くうちには、この男くらいの勢力を得る事はできるかも知れない。できるだ
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