みならず袷《あわせ》一枚ではなはだ寒い。寒いのは、この五月の空に、かんかん炭を焼《た》いて獰猛共が囲炉裏《いろり》へあたってるんでも分る。自分は仕方がないからてれ[#「てれ」に傍点]隠《かく》しに襯衣《シャツ》の釦《ボタン》をはずして腋《わき》の下へ手を入れたり、膝《ひざ》を立てて、足の親指を抓《つね》って見たり、あるいは腿《もも》の所を両手で揉《も》んで見たり、いろいろやっていた。こう云う時に、落ついた顔をして――顔ばかりじゃいけない、心《しん》から落ちついて、平気で坐ってる修業をして置かないと、大きな損だ。しかし、十九や、そこいらではとうてい覚束《おぼつか》ない芸だから、自分はやむを得ず。前記の通りいろいろ馬鹿な真似《まね》をしていると、突然、
「おい」
と呼んだものがある。自分はこの時ちょうど下を向いて鳴海絞《なるみしぼり》の兵児帯《へこおび》を締め直していたが、この声を聞くや否や、電気仕掛の顔のように、首筋が急に釣った。見るとさっきの顔揃《かおぞろい》で、眼がみんなこっちを向いて、光ってる。「おい」と云う声は、どの顔から出たものか分らないが、どの顔から出たにしても大した変りはない。どの顔も獰猛《どうもう》で、よく見るとその獰猛のうちに、軽侮《あなどり》と、嘲弄《あざけり》と、好奇の念が判然と彫りつけてあったのは、首を上げる途端《とたん》に発明した事実で、発明するや否や、非常に不愉快に感じた事実である。自分は仕方がないから、首を上げたまま、「おい」の声がもう一遍出るのを待っていた。この間が約何秒かかったか知らないが、とにかく予期の状態で一定の姿勢におったものらしい。すると、いきなり、
「やに澄《す》ますねえ」
と云ったものがある。この声はさっきの「おい」よりも少し皺枯《しゃが》れていたから、大方別人だろうと鑑定した。しかし返答をするべき性質《たち》の言葉でないから――字で書くと普通のねえ[#「ねえ」に傍点]のように見えるが、実はなよ[#「なよ」に傍点]の命令を倶利加羅流《くりからりゅう》に崩《くず》したんだから、はなはだ下等である。――それでやっぱり黙ってた。ただ内心では大いに驚いた。自分がここへ来て言葉を交したものは原さんと婆さんだけであるが、婆さんは女だから別として、原さんは思ったよりも叮嚀《ていねい》であった。ところが原さんは飯場頭《はんばがしら》である。頭《かしら》ですらこれだから、平《ひら》の坑夫は無論そう野卑《ぞんざい》じゃあるまいと思い込んでいた。だから、この悪口《あくたい》が藪《やぶ》から棒《ぼう》に飛んで来た時には、こいつはと退避《ひる》む前に、まずおやっと毒気を抜かれた。ここでいっその事|毒突返《どくづきかえ》したなら、袋叩《ふくろだた》きに逢《あ》うか、または平等の交際が出来るか、どっちか早く片がついたかも知れないが、自分は何にも口答えをしなかった。もともと東京生れだから、この際何とか受けるくらいは心得ていたんだろう。それにもかかわらず、兄《あにい》に類似した言語は無論、尋常の竹箆返《しっぺいがえ》しさえ控えたのは、――相手にならないと先方《さき》を軽蔑《けいべつ》したためだろうか――あるいは怖《こわ》くって何とも云う度胸がなかったんだろうか。自分は前の方だと云いたい。しかし事実はどうも後《あと》の方らしい。とにかくも両方|交《まじ》ってたと云うのが一番|穏《おだやか》のように思われる。世の中には軽蔑しながらも怖《こわ》いものが沢山《いくら》もある。矛盾にゃならない。
それはどっちにしたって構わないが、自分がこの悪口《あくたい》を聞いたなり、おとなしく聞き流す料簡《りょうけん》と見て取った坑夫共は、面白そうにどっと笑った。こっちがおとなしければおとなしいほど、この笑は高く響いたに違ない。銅山《やま》を出れば、世間が相手にしてくれない返報に、たまたま普通の人間が銅山の中へ迷い込んで来たのを、これ幸《さいわ》いと嘲弄《ちょうろう》するのである。自分から云えば、この坑夫共が社会に対する恨《うら》みを、吾身《わがみ》一人で引き受けた訳になる。銅山へ這入《はい》るまでは、自分こそ社会に立てない身体《からだ》だと思い詰めていた。そこで飯場《はんば》へ上《あが》って見ると、自分のような人間は仲間にしてやらないと云わんばかりの取扱いである。自分は普通の社会と坑夫の社会の間に立って、立派に板挟《いたばさ》みとなった。だからこの十四五人の笑い声が、ほてるほど自分の顔の正面に起った時は、悲しいと云うよりは、恥ずかしいと云うよりは、手持無沙汰《てもちぶさた》と云うよりは、情《なさけ》ないほど不人情な奴が揃《そろ》ってると思った。無教育は始めから知れている。教育がなければ予期出来ないほどの無理な注文はしないつもりだが、なん
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