と、今日から飯場の飯を食い出す以上は自分だって安閑としちゃいられない。万事この婆さんの型で行かなくっちゃなるまい。――なるまい。――と力を入れて、うんと思ったら、さすがに草臥れた手足が急になるまい[#「なるまい」に傍点]で充満して、頭と胸の組織がちょっと変ったような気分になった。その勢いで広い階子段《はしごだん》を、案内に応じて、すとんすとんと景気よく登って行った。が自分の頭が階子段から、ぬっと一尺ばかり出るや否や、この決心が、ぐうと退避《たじろ》いだ。
 胸から上を階子段の上へ出して、二階を見渡すと驚いた。畳数《たたみかず》は何十枚だか知らないが遥《はるか》の突き当りまで敷き詰めてあって、その間には一重《ひとえ》の仕切りさえ見えない。ちょうど柔道の道場か、浪花節《なにわぶし》の席亭のような恰好《かっこう》で、しかも広さは倍も三倍もある。だから、ただ駄々《だだ》ッ広《ぴろ》い感じばかりで、畳の上でもまるで野原へ出たとしきゃあ思えない。それだけでも驚く価値《ねうち》は十分あるが、その広い原の中に大きな囲炉裏《いろり》が二つ切ってある、そこへ人間が約十四五人ずつかたまっている。自分の決心が退避いだと云うのは、卑怯《ひきょう》な話だが、全くこの人間にあったらしい。平生から強がっていたにはいたが、若輩《じゃくはい》の事だから、見ず知らずの多勢の席へ滅多《めった》に首を出した事はない。晴の場所となると、ただでさえもじもじする。ところへもって来て、突然坑夫の団体に生擒《いけど》られたんだから、この黒い塊《かたまり》を見るが早いか、いささか辟易《ひるん》じまった。それも、ただの人間ならいい。と云っちゃ意味がよく通じない。――ただの人間が、坑夫になってるなら差支《さしつかえ》ない。ところが自分の胸から上が、階子段を出ると、等しく、この塊の各部分が、申し合せたように、こっちを向いた。その顔が――実はその顔で全く畏縮《いしゅく》してしまった。と云うのはその顔がただの顔じゃない。ただの人間の顔じゃない。純然たる坑夫の顔であった。そう云うより別に形容しようがない。坑夫の顔はどんなだろうと云う好奇心のあるものは、行って見るより外に致し方がない。それでも是非説明して見ろと云うなら、ざっと話すが、――頬骨《ほおぼね》がだんだん高く聳《そび》えてくる。顎《あご》が競《せ》り出す。同時に左右に突っ張る。眼が壺《つぼ》のように引ッ込んで、眼球《めだま》を遠慮なく、奥の方へ吸いつけちまう。小鼻が落ちる。――要するに肉と云う肉がみんな退却して、骨と云う骨がことごとく吶喊《とっかん》展開するとでも評したら好かろう。顔の骨だか、骨の顔だか分らないくらいに、稜々《りょうりょう》たるものである。劇《はげ》しい労役の結果早く年を取るんだとも解釈は出来るが、ただ天然自然に年を取ったって、ああなるもんじゃない。丸味とか、温味《あたたかみ》とか、優味《やさしみ》とか云うものは薬にしたくっても、探し出せない。まあ一口に云うと獰猛《どうもう》だ。不思議にもこの獰猛な相《そう》が一列一体の共有性になっていると見えて、囲炉裏《いろり》の傍《はた》の黒いものが等しく自分の方を向くと、またたく間《ま》に獰猛な顔が十四五|揃《そろ》った。向うの囲炉裏を取捲《とりま》いてる連中も同じ顔に違いない。さっき坂を上がってくるとき、長屋の窓から自分を見下《みおろ》していた顔も全くこれである。して見ると組々の長屋に住んでいる総勢一万人の顔はことごとく獰猛なんだろう。自分は全く退避《ひる》んだ。
 この時婆さんが後《うしろ》を振り返って、
「こっちへおいでなさい」
と、もどかしそうに云うから、度胸を据《す》えて、獰猛の方へ近づいて行った。ようやく囲炉裏の傍《はた》まで来ると、婆さんが、今度は、
「まあここへ御坐《おすわ》んなさい」
と差《さ》しずをしたが、ただ好加減《いいかげん》な所へ坐れと云うだけで、別に設けの席も何もないんだから、自分は黒い塊《かたま》りを避《さ》けて、たった一人畳の上へ坐った。この間獰猛な眼は、始終《しじゅう》自分に喰っついている。遠慮も何もありゃしない。そうして誰も口を利《き》くものがない。取附端《とりつきは》を見出《みいだ》すまでは、団体の中へ交り込む訳にも行かず、ぽつねんと独《ひと》りぼッちで離れているのは、獰猛の目標《めじるし》となるばかりだし、大いに困った。婆さんは、自分を紹介する段じゃない、器械的に「ここへ坐れ」と云ったなり、ちょっ切り結びの尻を振り立てて階子段《はしごだん》を降りて行ってしまった。広い寄席《よせ》の真中にたった一人取り残されて、楽屋の出方《でかた》一同から、冷かされてるようなものだ、手持無沙汰《てもちぶさた》は無論である。ことさら今の自分に取っては心細い。の
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