たら、何とか尽力して坑夫にしてくれるだろう。よし坑夫にしてくれないまでも、どうにか片をつけてくれるだろう。汽車賃を出してくれたくらいだから、方角のわかる所までくらいは送り出してくれそうなものだ。蟇口《がまぐち》を長蔵さんに取られてから、懐中《ふところ》には一文もない。帰るにしても、帰る途中で腹が減って山の中で行倒《ゆきだおれ》になるまでだ。いっその事今から長蔵さんを追掛けて見ようか。飯場飯場を探して歩いたら逢《あ》えない事もないだろう。逢ってこれこれだと泣きついたら、今までの交際《つきあい》もある事だから、好い智慧《ちえ》を貸してくれまいものでもない。しかし別れ際に挨拶さえしない男だから、ひょっとすると……自分は原さんの前で実はこんな閑《ひま》な事を、非常に忙しく、ぐるぐる考えていた。好《すき》な原さんが前にいるのに、あんまり下さらない、しかも消えてなくなった長蔵さんばかりを相談相手のように思い込んだのは、どう云う理由《わけ》だろう。こんな事はよくあるもんだから、いざと云う場合に、敵は敵、味方は味方と板行《はんこう》で押したように考えないで、敵のうちで味方を探したり、味方のうちで敵を見露《みあら》わしたり、片方《かたっぽ》づかないように心を自由に活動させなくってはいけない。
 弱輩《じゃくはい》な自分にはこの機合《きあい》がまだ呑《の》み込めなかったもんだから、原さんの前に立って顫えながら、へどもどしていると、原さんも気の毒になったと見えて、
「あなたさえ帰る気なら、及ばずながら相談になろうじゃありませんか」
と向うから口を掛けてくれた。こう切って出られた時に、自分ははっとありがたく感じた。ばかりなら当り前だがはっと気がついた。――自分の相談相手は自分の志望を拒絶するこの原さんを除いて、ほかにないんだと気がついた。気がつくと同時にまた口が利《き》けなくなった。是非坑夫にしてくれとも、帰るから旅費を貸してくれとも言いかねて、やっぱり立ちすくんでいた。気がついても何にもならない、ただ右の手で拳骨《げんこつ》を拵《こしら》えて寒い鼻の下を擦《こす》ったように記憶している。自分はその前|寄席《よせ》へ行って、よく噺家《はなしか》がこんな手真似《てつき》をするのを見た事があるが、自分でその通りを実行したのは、これが始めてである。この手真似を見ていた原さんが、今度はこう云った。
「失礼ながら旅費のことなら、心配しなくっても好ござんす。どうかして上げますから」
 旅費は無論ない。一厘たりとも金気《かなけ》は肌に着いていない。のたれ死《じに》を覚悟の前でも、金は持ってる方が心丈夫だ。まして慢性の自滅で満足する今の自分には、たとい白銅一箇の草鞋銭《わらじせん》でも大切である。帰ると事がきまりさえすれば、頭を地に摺《す》りつけても、原さんから旅費を恵んで貰ったろう。実際こうなると廉恥《れんち》も品格もあったもんじゃない。どんな不体裁《ふていさい》な貰い方でもする。――大抵の人がそうなるだろう。またそうなってしかるべきである。――しかしけっして褒《ほ》められた始末じゃない。自分がこんな事を露骨にかくのは、ただ人間の正体を、事実なりに書くんで、書いて得意がるのとは訳が違う。人間の生地《きじ》はこれだから、これで差支《さしつかえ》ないなどと主張するのは、練羊羹《ねりようかん》の生地は小豆《あずき》だから、羊羹の代りに生《なま》小豆を噛《か》んでれば差支ないと結論するのと同じ事だ。自分はこの時の有様を思い出すたびに、なんで、あんな、さもしい料簡《りょうけん》になったものかと、吾《われ》ながら愛想《あいそ》が尽きる。こう云う下卑《げび》た料簡を起さずに、一生を暮す事のできる人は、経験の足りない人かも知れないが、幸な人である。また自分らよりも遥《はるか》に高尚な人である。生小豆のまずさ加減を知らないで、生涯《しょうがい》練羊羹ばかり味わってる結構な人である。
 自分は、も少しの事で、手を合せて、見ず知らずの飯場頭《はんばがしら》からわずかの合力《ごうりき》を仰ぐところであった。それをやっとの事で喰い止めたのは、せっかくの好意で調《ととの》えてくれる金も、二三日《にさんち》木賃宿《きちんやど》で夜露を凌《しの》げば、すぐ無くなって、無くなった暁には、また当途《あてど》もなく流れ出さなければならないと、冥々《めいめい》のうちに自覚したからである。自分は屑《いさぎ》よく涙金《なみだきん》を断った。断った表向は律義《りちぎ》にも見える。自分もそう考えるが、よくよく詮索《せんさく》すると、慾の天秤《てんびん》に懸《か》けた、利害の判断から出ている事はたしかである。その証拠には補助を断《ことわ》ると同時に、自分は、こんな事を言い出した。
「その代り坑夫に使って下さい。せ
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