っかく来たんだから、僕はどうしてもやって見る気なんですから」
「随分|酔興《すいきょう》ですね」
と原さんは首を傾《かし》げて、自分を見つめていたが、やがて溜息のような声を出して、
「じゃ、どうしても帰る気はないんですね」
と云った。
「帰るったって、帰る所がないんです」
「だって……」
「家《うち》なんかないんです。坑夫になれなければ乞食《こじき》でもするより仕方がないです」
 こんな押問答を二三度重ねている中に、口を利《き》くのが大変楽になって来た。これは思い切って、無理な言葉を、出《で》にくいと知りながら、我慢して使った結果、おのずと拍子《ひょうし》に乗って来た勢いに違ないんだから、まあ器械的の変化と見傚《みな》しても差支《さしつかえ》なかろうが、妙なもので、その器械的の変化が、逆戻りに自分の精神に影響を及ぼして来た。自分の言いたい事が何の苦もなく口を出るに連れて――ある人はある場合に、自分の言いたくない事までも調子づいてべらべら饒舌《しゃべ》る。舌はかほどに器械的なものである。――この器械が使用の結果加速度の効力を得るに連れて、自分はだんだん大胆になって来た。
 いや、大胆になったから饒舌れたんだろう、君の云う事は顛倒《あべこべ》じゃないかとやり込める気なら、そうして置いてもいい。いいが、それはあまり陳腐《ちんぷ》でかつ時々|嘘《うそ》になる。嘘と陳腐で満足しないものは自分の言分をもっともと首肯《うなず》くだろう。
 自分は大胆になった。大胆になるに連れて、どうしても坑夫に住み込んでやろうと決心した。また饒舌っておれば必ず坑夫になれるに違ないと自覚して来た。一昨日《おととい》家《うち》を飛び出す間際《まぎわ》までは、夢にも坑夫になろうと云う分別は出なかった。ばかりではない、坑夫になるための駆落《かけおち》と事がきまっていたならば、何となく恥ずかしくなって、まあ一週間よく考えた上にと、出奔《しゅっぽん》の時期を曖昧《あいまい》に延ばしたかもしれない。逃亡はする。逃亡はするが、紳士の逃亡で、人だか土塊《つちくれ》だか分らない坑掘《あなほり》になり下《さが》る目的の逃亡とは、何不足なく生育《そだ》った自分の頭には影さえ射さなかったろう。ところが原さんの前で寒い奥歯を噛《か》みしめながら、しょう事なしの押問答をしているうちに、自分はどうあっても坑夫になるべき運命、否《いな》天職を帯びてるような気がし出した。この山とこの雲とこの雨を凌《しの》いで来たからには、是非共坑夫にならなければ済まない。万一採用されない暁には自分に対して面目がない。――読者は笑うだろう。しかし自分は当時の心情を真面目《まじめ》に書いてるんだから、人が見ておかしければおかしいほど、その時の自分に対して気の毒になる。
 妙な意地だか、負惜《まけおし》みだか、それとも行倒れになるのが怖《こわ》くって、帰り切れなかったためだか、――その辺は自分にも曖昧だが、とにかく自分は、もっとも熱心な語調で原さんを口説《くど》いた。
「……そう云わずに使って下さい。実際僕が不適当なら仕方がないが、まだやって見ない事なんだから――せっかく山を越して遠方をわざわざ来た甲斐《かい》に、一日《いちんち》でも二日《ふつか》でも、いいですから、まあ試しだと思って使って下さい。その上で、とうてい役に立たないと事がきまれば帰ります。きっと帰ります。僕だって、それだけの仕事が出来ないのに、押《おし》を強く御厄介《ごやっかい》になってる気はないんですから。僕は十九です。まだ若いです。働き盛りです……」
と昨日《きのう》茶店の神《かみ》さんが云った通りをそのまま図に乗って述べ立てた。後から考えると、これはむしろ人が自分を評する言葉で、自分が自分を吹聴《ふいちょう》する文句ではなかった。そこで原さんは少し笑い出した。
「それほどお望みなら仕方がない。何も御縁だ。まあやって御覧なさるが好い。その代り苦しいですよ」
と原さんは何気なく裏の赤い山を覗《のぞ》くように見上げた。おおかた天気模様でも見たんだろう。自分も原さんといっしょに山の方へ眼を移した。雨は上がったが、暗く曇っている。薄気味の悪いほど怪しい山の中の空合《そらあい》だ。この一瞬時に、自分の願が叶《かな》って、自分はまず山の中の人となった。この時「その代り苦しいですよ」と云った原さんの言葉が、妙に気に掛り出した。人は、ようやくの思いで刻下《こっか》の志を遂《と》げると、すぐ反動が来て、かえって志を遂げた事が急に恨《うら》めしくなる場合がある。自分が望み通りここへ落ちつける口頭の辞令を受け取った時の感じはいささかこれに類している。
「じゃね」――原さんは語調を改めて話し出した。――「じゃね。何しろ明日《あした》の朝シキ[#「シキ」に傍点]へ這入《は
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