一行ばかり聞くと、急に泣きたくなったが、実は泣かなかった。悄然《しょうぜん》とはしていたが、気は張っている。どこからか知らないが、抵抗心が出て来た。ただ思うように口が利《き》けないから、黙って向うの云う事を聞いていた。すると飯場掛りは嬉しいほど親切な口調で、こう云った。――
「……まあどうして、こんな所へ御出《おいで》なすったんだか、今の男が連れて来るくらいだから大概|私《わたし》にも様子は知れてはいるが――どうです、もう一遍考えて見ちゃあ。きっと取《と》ッ附《つけ》坑夫になれて、金がうんと儲《もう》かるてえような旨《うま》い話でもしたんでしょう。それがさ、実際やって見るととうてい話の十が一にも行かないんだからつまらないです。第一坑夫と一口に云いますがね。なかなかただの人に出来る仕事じゃない、ことにあなたのように学校へ行って教育なんか受けたものは、どうしたって勤まりっこありませんよ。……」
 飯場頭《はんばがしら》はここまで来て、じっと自分の顔を見た。何とか云わなくっちゃならない。幸《さいわ》いこの時はもう泣きたいところを通り越して、口が利《き》けるようになっていた。そこで自分はこう云った。――
「僕は――僕は――そんなに金なんか欲しかないです。何も儲《もう》けるためにやって来た訳じゃないんですから、――そりゃ知ってるです、僕だって知ってるです……」
と、この時知ってるですを二遍繰り返した事を今だに記憶している。はなはだ穏かならぬ生意気な、ものの云いようだった。若いうちは、たった今まで悄気《しょげ》ていても、相手しだいですぐつけ上っちまう。まことに赤面の至りである。しかもその知ってるですが、何を知ってるのかと思うと、今自分を連れて来た男、すなわち長蔵さんは、一種の周旋屋であって、すべての周旋屋に共通な法螺吹《ほらふ》きであると云う真相をよく自覚していると云う意味なんだから、いくら知ってたって自慢にならないのは無論である。それを念入に、瞞着《だまさ》れて来たんじゃない、万事承知の上の坑夫志願だなどと説明して見たって今更《いまさら》どうなるものじゃない。ところが年が若いと虚栄心の強いもので――今でも弱いとは云わないが――しきりに弁解に取り掛ったのは実に冷汗の出るほどの愚《ぐ》であった。幸い相手が、こう云う家業《かぎょう》に似合わぬ篤実《とくじつ》な男で、かつ自分の不経験を気の毒に思うのあまり、この生意気を生意気と知りながら大目に見てくれたもんだから、どやされずに済んだ。まことにありがたい。この飯場に住み込んだあとで、頭《かしら》の勢力の広大なるに驚くにつれて、僕は知ってるです[#「僕は知ってるです」に傍点]を思い出しては独《ひと》り赧《あか》い顔をしていた。ついでに云うがこの頭の名は原駒吉《はらこまきち》である。今もって自分は好い名だと思ってる。
 原さんは別に厭《いや》な顔つきもせずに、黙って自分の言訳を聞いていたが、やがて頭《あたま》を振り出した。その頭は大きな五分刈《ごぶがり》で額の所が面摺《めんずれ》のように抜き上がっている。
「そりゃ物数奇《ものずき》と云うもんでさあ。せっかく来たから是非やるったって、何も家《うち》を出る時から坑夫になると思いつめた訳でもないんでしょう。云わば一時《いちじ》の出来心なんだからね。やって見りゃ、すぐ厭になっちまうな眼に見えてるんだから、廃《よ》すが好《よ》うがしょう。現に書生さんでここへ来て十日と辛抱したものあ、有りゃしませんぜ。え? そりゃ来る。幾人《いくたり》も来る。来る事は来るが、みんな驚いて逃げ出しちまいまさあ。全く普通《なみ》のものの出来る業《わざ》じゃありませんよ。悪い事は云わないから御帰んなさい。なに坑夫をしなくったって、口過《くちすぎ》だけなら骨は折れませんやあ」
 原さんはここに至って、胡坐《あぐら》を崩《くず》して尻を宙に上げかけた。自分はどうしても落第しそうな按排《あんばい》である。大いに困った。困った結果、坑夫と云う事から気を離して、自分だけを検査して見ると、――何だか急に寒くなった。袷《あわせ》はさっきの雨で濡《ぬ》れている。洋袴下《ズボンした》は穿《は》いていない。東京の五月もこの山の奥へ来るとまるで二月か三月の気候である。坂を登っている間こそ体温でさほどにも思わなかった。原さんに拒絶されるまでは気が張っていたから、好かった。しかし飯場《はんば》へ来て休息した上に、坑夫になる見込がほとんど切れたとなると、情《なさけ》ないのが寒いのと合併して急に顫《ふる》え出した。その時の自分の顔色は定めし見るに堪《た》えんほど醜いもんだったろう。この時自分はまた何となく、今しがた自分を置去《おきざり》にして、挨拶《あいさつ》もしずに出て行った長蔵さんが恋しくなった。長蔵さんがい
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