の間にか木が抜けて、空坊主《からぼうず》になったり、ところ斑《まだら》の禿頭《はげあたま》と化けちまったんで、丹砂《たんしゃ》のように赤く見える。今までの雲で自分と世間を一筆《ひとふで》に抹殺《まっさつ》して、ここまでふらつきながら、手足だけを急がして来たばかりだから、この赤い山がふと眼に入るや否や、自分ははっと雲から醒《さ》めた気分になった。色彩の刺激が、自分にこう強く応《こた》えようとは思いがけなかった。――実を云うと自分は色盲じゃないかと思うくらい、色には無頓着《むとんじゃく》な性質《たち》である。――そこでこの赤い山が、比較的烈しく自分の視神経を冒《おか》すと同時に、自分はいよいよ銅山に近づいたなと思った。虫が知らせたと云えば、虫が知らせたとも云えるが、実はこの山の色を見て、すぐ銅《あかがね》を連想したんだろう。とにかく、自分がいよいよ到着したなと直覚的に――世の中で直覚的と云うのは大概このくらいなものだと思うが――いわゆる直覚的に事実を感得した時に、長蔵さんが、
「やっと、着いた」
と自分が言いたいような事を云った。それから十五分ほどしたら町へ出た。山の中の山を越えて、雲の中の雲を通り抜けて、突然新しい町へ出たんだから、眼を擦《こす》って視覚をたしかめたいくらい驚いた。それも昔の宿《しゅく》とか里とか云う旧幕時代に縁のあるような町なら、まだしもだが、新しい銀行があったり、新しい郵便局があったり、新しい料理屋があったり、すべてが苔《こけ》の生えない、新しずくめの上に、白粉《おしろい》をつけた新しい女までいるんだから、全く夢のような気持で、不審が顔に出る暇《いとま》もないうちに通り越しちまった。すると橋へ出た。長蔵さんは橋の上へ立って、ちょっと水の色を見たが、
「これが入口だよ。いよいよ着いたんだから、そのつもりでいなくっちゃ、いけない」
と注意を与えた。しかし自分には、どんなつもりでいなくっちゃいけないんだか、ちっとも分らなかったから、黙って橋の上へ立って、入口から奥の方を見ていた。左が山である。右も山である。そうして、所々に家《うち》が見える。やっぱり木造の色が新しい。中には白壁だか、ペンキ塗だか分らないのがある。これも新しい。古ぼけて禿《は》げてるのは山ばかりだった。何だかまた現実世界に引《ひ》き摺《ず》り込まれるような気がして、少しく失望した。長蔵さんは自分が黙って橋の向《むこう》を覗《のぞ》き込んでるのを見て、
「好いかね、御前さん、大丈夫かい」
とまた聞き直したから、自分は、
「好いです」
と明瞭《めいりょう》に答えたが、内心あまり好くはなかった。なぜだかしらないが、長蔵さんはただ自分にだけ懸念《けねん》がある様子であった。赤毛布《あかげっと》と小僧には「好いかね」とも「大丈夫かい」とも聞かなかった。頭からこの両人《ふたり》は過去の因果《いんが》で、坑夫になって、銅山のうちに天命を終るべきものと認定しているような気色《けしき》がありありと見えた。して見ると不信用なのは自分だけで、だいぶ長蔵さんからこいつは危《あぶ》ないなと睨《にら》まれていたのかも知れない。好い面《つら》の皮だ。
 それから四人|揃《そろ》って、橋を渡って行くと、右手に見える家にはなかなか立派なのがある。その中《うち》で一番いかめしい奴《やつ》を指《さ》して、あれが所長の家《うち》だと長蔵さんが教えてくれた。ついでに左の方を見ながら
「こっちがシキ[#「シキ」に傍点]だよ、御前さん、好いかね」
と云う。自分はシキ[#「シキ」に傍点]と云う言葉をこの時始めて聞いた。
 よっぽど聞き返そうかと思ったが、大方これがシキ[#「シキ」に傍点]なんだろうと思って黙っていた。あとから自分もこのシキ[#「シキ」に傍点]と云う言葉を明瞭《めいりょう》に理解しなければならない身分になったが、やっぱり始めにぼんやり考えついた定義とさした違もなかった。そのうち左へ折れていよいよシキ[#「シキ」に傍点]の方へ這入《はい》る事になった。鉄軌《レール》についてだんだん上《のぼ》って行くと、そこここに粗末な小さい家がたくさんある。これは坑夫の住んでる所だと聞いて、自分も今日から、こんな所で暮すのかと思ったが、それは間違であった。この小屋はどれも六畳と三畳|二間《ふたま》で、みんな坑夫の住んでる所には違ないが、家族のあるものに限って貸してくれる規定であるから、自分のような一人ものは這入りたくたって這入れないんだった。こう云う小屋の間を縫って、飽《あ》きずに上《のぼ》って行くと、今度は石崖《いしがけ》の下に細長い横幅ばかりの長屋が見える。そうして、その長屋がたくさんある。始めはわずか二三軒かと思ったら、登るに従って続々あらわれて来た。大きさも長さも似たもんで、みんな崖下《がけし
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