。なぜ午までに着かなくっちゃならないんだか、訳が分らないが、聞いて見る勇気がなかったから、黙って食っついて行った。するとなるほど登《のぼり》になって来た。昨夕あれほど登ったつもりだのに、まだ登るんだから嘘《うそ》のようでもあるが実際見渡して見ると四方《しほう》は山ばかりだ。山の中に山があって、その山の中にまた山があるんだから馬鹿馬鹿しいほど奥へ這入《はい》る訳になる。この模様では銅山《どうざん》のある所は、定めし淋しいだろう。呼息《いき》を急《せ》いて登りながらも心細かった。ここまで来る以上は、都へ帰るのは大変だと思うと、何の酔興《すいきょう》で来たんだか浅間《あさま》しくなる。と云って都におりたくないから出奔《しゅっぽん》したんだから、おいそれと帰りにくい所へ這入って、親親類《おやしんるい》の目に懸《か》からないように、朽果《くちは》ててしまうのはむしろ本望である。自分は高い坂へ来ると、呼息を継《つ》ぎながら、ちょっと留っては四方の山を見廻した。するとその山がどれもこれも、黒ずんで、凄《すご》いほど木を被《かぶ》っている上に、雲がかかって見る間《ま》に、遠くなってしまう。遠くなると云うより、薄くなると云う方が適当かも知れない。薄くなった揚句《あげく》は、しだいしだいに、深い奥へ引き込んで、今までは影のように映ってたものが、影さえ見せなくなる。そうかと思うと、雲の方で山の鼻面《はなづら》を通り越して動いて行く。しきりに白いものが、捲《ま》き返しているうちに、薄く山の影が出てくる。その影の端がだんだん濃くなって、木の色が明かになる頃は先刻《さっき》の雲がもう隣りの峰へ流れている。するとまた後《あと》からすぐに別の雲が来て、せっかく見え出した山の色をぼうとさせる。しまいには、どこにどんな山があるかいっこう見当《けんとう》がつかなくなる。立ちながら眺《なが》めると、木も山も谷もめちゃめちゃになって浮き出して来る。頭の上の空さえ、際限もない高い所から手の届く辺《あたり》まで落ちかかった。長蔵さんは、
「こりゃ、雨だね」
と、歩きながら独言《ひとりごと》を云った。誰も答えたものはない。四人《よつたり》とも雲の中を、雲に吹かれるような、取り捲《ま》かれるような、また埋《うず》められるような有様で登って行った。自分にはこの雲が非常に嬉しかった。この雲のお蔭《かげ》で自分は世の中から隠したい身体《からだ》を十分に隠すことが出来た。そうして、さのみ苦しい思いもしずにその中を歩いて行ける。手足は自由に働いて、閉《と》じ籠《こ》められたような窮屈も覚えない上に、人目にかからん徳は十分ある。生きながら葬《ほうぶ》られると云うのは全くこの事である。それが、その時の自分には唯一の理想であった。だからこの雲は全くありがたい。ありがたいという感謝の念よりも、雲に埋められ出してから、まあ安心だと、ほっと一息した。今考えると何が安心だか分りゃしない。全くの気違だと云われても仕方がない。仕方がないが、こう云う自分が、時と場合によれば、翌《あす》が日にも、また雲が恋しくならんとも限らない。それを思うと何だか変だ。吾《わ》が身《み》で吾が身が保証出来ないような、また吾が身が吾が身でないような気持がする。
しかしこの時の雲は全く嬉しかった。四人が離れたり、かたまったり、隔《へだ》てられたり、包まれたりして雲の中を歩いて行った時の景色はいまだに忘れられない。小僧が雲から出たり這入ったりする。茨城の毛布《けっと》が赤くなったり白くなったりする。長蔵さんの、どてら[#「どてら」に傍点]が、わずか五六間の距離で濃くなったり薄くなったりする。そうして誰も口を利《き》かない。そうして、むやみに急ぐ。世界から切り離された四つの影が、後《あと》になり先になり、殖《ふえ》もせず減《へり》もせず、四つのまま、引かれて合うように、弾《はじ》かれて離れるように、またどうしても四つでなくてはならないように、雲の中をひたすら歩いた時の景色はいまだに忘れられない。
自分は雲に埋まっている。残る三人も埋まっている。天下が雲になったんだから、世の中は自分共にたった四人である。そうしてその三人が三人ながら、宿無《やどなし》である。顔も洗わず朝飯も食わずに、雲の中を迷って歩く連中である。この連中と道伴《みちづれ》になって登り一里、降《くだ》り二里を足の続く限り雲に吹かれて来たら、雨になった。時計がないんで何時《なんじ》だか分らない。空模様で判断すると、朝とも云われるし、午過《ひるすぎ》とも云われるし、また夕方と云っても差支《さしつかえ》ない。自分の精神と同じように世界もぼんやりしているが、ただちょっと眼についたのは、雨の間から微《かす》かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。いつ
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