た》にあるんだから位地にも変りはないが、向《むき》だけは各々《めいめい》違ってる。山坂を利用して、なけなしの地面へ建てることだから、東だとか西だとか贅沢《ぜいたく》は言っていられない。やっとの思いで、ならした地面へ否応《いやおう》なしに、方角のお構《かまい》なく建ててしまったんだから不規則なものだ。それに、第一、登って行く道がくねってる。あの長屋の右を歩いてるなと思うと、いつの間《ま》にかその長屋の前へ出て来る。あれは、すぐ頭の上だがと心待ちに待っていると、急に路が外《そ》れて遠くへ持ってかれてしまう。まるで見当《けんとう》がつかない。その上この細長い家から顔が出ている。家から顔が出ているのが珍らしい事もないんだが、その顔がただの顔じゃない。どれも、これも、出来ていない上に、色が悪い。その悪さ加減がまた、尋常でない。青くって、黒くって、しかも茶色で、とうてい都会にいては想像のつかない色だから困る。病院の患者などとはまるで比較にならない。自分が山路を登りながら、始めてこの顔を見た時は、シキ[#「シキ」に傍点]と云う意味をよく了解しない癖に、なるほどシキ[#「シキ」に傍点]だなと感じた。しかしいくらシキ[#「シキ」に傍点]でも、こう云う顔はたくさんあるまいと思って、登って行くと、長屋を通るたんびに顔が出ていて、その顔がみんな同じである。しまいにはシキ[#「シキ」に傍点]とは恐ろしい所だと思うまで、いやな顔をたくさん見せられて、また自分の顔をたくさん見られて――長屋から出ている顔はきっと自分らを見ていた。一種|獰悪《どうあく》な眼つきで見ていた。――とうとう午後の一時に飯場《はんば》へ着いた。
 なぜ飯場と云うんだか分らない。焚《た》き出しをするから、そう云う名をつけたものかも知れない。自分はその後《ご》飯場の意味をある坑夫に尋ねて、箆棒《べらぼう》め、飯場たあ飯場でえ、何を云ってるんでえ、とひどく剣突《けんつく》を食《くら》った事がある。すべてこの社会に通用する術語は、シキ[#「シキ」に傍点]でも飯場[#「飯場」に傍点]でもジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]でも、みんな偶然に成立して、偶然に通用しているんだから、滅多《めった》に意味なんか聞くと、すぐ怒られる。意味なんか聞く閑《ひま》もなし、答える閑もなし、調べるのは大馬鹿となってるんだから至極《しごく》簡単でかつ全く実際的なものである。
 そう云う訳で飯場《はんば》の意味は今もって分らないが、とにかく崖《がけ》の下に散在している長屋を指《さ》すものと思えばいい。その長屋へようやく到着した。多くある長屋のうちで、なぜこの飯場を選んだかは、長蔵さんの一人《ひとり》ぎめだから、自分には説明しにくい。が、この飯場は長蔵さんの専門御得意の取引先と云う訳でもなかったらしい。長蔵さんは自分をこの飯場へ押しつけるや否や、いつの間《ま》にか、赤毛布《あかげっと》と小僧を連れてほかの飯場へ出て行ってしまった。それで二人はほかの飯場の飯《めし》を食うようになったんだなと後《あと》から気がついた。二人の消息はその後《のち》いっこう聞かなかった。銅山《やま》のなかでもついぞ顔を合せた事がない。考えると、妙なものだ。一膳めし屋から突然飛び出した赤い毛布《けっと》と、夕方の山から降《くだ》って来た小僧と落ち合って、夏の夜《よ》を後になり先になって、崩《くず》れそうな藁屋根《わらやね》の下でいっしょに寝た明日《あくるひ》は、雲の中を半日かかって、目指す飯場へようやく着いたと思うと、赤毛布も小僧もふいと消えてなくなっちまう。これでは小説にならない。しかし世の中には纏《まと》まりそうで、纏らない、云わばでき損《そこな》いの小説めいた事がだいぶある。長い年月を隔《へだ》てて振り返って見ると、かえってこのだらしなく尾を蒼穹《そうきゅう》の奥に隠してしまった経歴の方が興味の多いように思われる。振り返って思い出すほどの過去は、みんな夢で、その夢らしいところに追懐の趣《おもむき》があるんだから、過去の事実それ自身にどこかぼんやりした、曖昧《あいまい》な点がないとこの夢幻の趣を助ける事が出来ない。したがって十分に発展して来て因果《いんが》の予期を満足させる事柄よりも、この赤毛布流に、頭も尻も秘密の中《うち》に流れ込んでただ途中だけが眼の前に浮んでくる一夜半日《いちやはんにち》の画《え》の方が面白い。小説になりそうで、まるで小説にならないところが、世間臭くなくって好い心持だ。ただに赤毛布ばかりじゃない。小僧もそうである。長蔵さんもそうである。松原の茶店の神《かみ》さんもそうである。もっと大きく云えばこの一篇の「坑夫」そのものがやはりそうである。纏まりのつかない事実を事実のままに記《しる》すだけである。小説のように拵《こしら》え
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