建ててあるんだなと、ようやく気がついたくらい、泊る事は予期していなかった。それでいて身体《からだ》は蒟蒻《こんにゃく》のように疲れ切ってる。平生《いつも》なら泊りたい、泊りたいですべての内臓が張切《はちき》れそうになるはずだのに、没自我《ぼつじが》の坑夫行《こうふゆき》、すなわち自滅の前座としての堕落と諦《あきら》めをつけた上の疲労だから、いくら身体に泊る必要があっても、身体の方から魂へ宛てて宿泊の件を請求していなかった。ところへ泊ると命令が天から逆に魂が下ったんで、魂はちょっとまごついたかたちで、とりあえず手足に報告すると、手足の方では非常に嬉しがったから、魂もなるほどありがたいと、始めて長蔵さんの好意を感謝した。と云う訳になる。何となく落語じみてふざけているが、実際この時の心の状態は、こう譬《たとえ》を借りて来ないと説明ができない。
 自分は長蔵さんの言葉を聞くや否や、急に神経が弛《ゆる》んで、立ち切れない足を引《ひ》き摺《ず》って、第一番に戸口の方に近寄った。赤毛布《あかげっと》はのそのそ這入《はい》ってくる。小僧は飛んで来た。飛んだんじゃあるまいが、草履《ぞうり》の尻が勢よく踵《かかと》へあたるんで、ぴしゃぴしゃ云う音が飛ぶように思われた。
 這入って見るとぷんと臭《にお》った。何の臭だかさらに分らない。小僧が鼻をぴくつかせたので、小僧もこの臭に感じたなと気がついた。長蔵さんと赤毛布はまるで無頓着《むとんじゃく》であった。土間から上へあがる段になって、雑巾《ぞうきん》でもと思ったが、小僧は委細構わず、草履を脱いで上がっちまった。小僧の草履は尻が無いんだから、半分|裸足《はだし》である。ひどい奴だと眺《なが》めていると、長蔵さんが、
「御前さんも下駄だから、御上り」
と注意した。それで気味がわるいが、ほこりも払わず上がった。畳の上へ一足掛けて見るとぶくっとした。小僧はその上へころりと転がっている。自分は尻だけおろして、障子《しょうじ》――障子は二枚あった――その障子の影へ胡坐《あぐら》をかいた。この障子は入口に立ててあるから、振り向くと、長蔵さんと赤毛布《あかげっと》が草鞋《わらじ》を脱いでいる。二人共腰から手拭《てぬぐい》を出して、ばたばた足をはたいている。そうして、すぐ上がって来た。足を洗うのが面倒だと見える。ところへ主人が次の間《ま》から茶と煙草盆《たばこぼん》を持って来た。
 主人だの、次の間だの、茶だの、煙草盆だの、と云うとすこぶる尋常に聞えるが、その実名ばかりで、一々説明すると、大変な誤解をしていたんだねと呆《あき》れ返《かえ》るものばかりである。がとにかく主人が次の間から、茶と煙草盆を持って来たには違いない。そうして長蔵さんと談話《はなし》をし始めた。談話の筋は忘れたが、その様子から察すると、二人はもとからの知合で、御互の間には貸や借があるらしい。何でも馬の事をしきりに云ってた。自分だの、赤毛布だの、小僧などの事はまるで聞きもしない。まるで眼中にない訳でもあるまいが、さっき長蔵さんが一人で談判に這入《はい》った時に、残らず聞いてしまったんだろう。それとも長蔵さんはたびたびこんな呑気屋《のんきや》を銅山《やま》へ連れて行くんで、自然その往き還りにはこの主人の厄介《やっかい》になりつけてるから、別段気にも留めないのかも知れない。
 自分は、長蔵さんと主人との話を聞きながら、居眠《いねむり》を始めた。いつから始めたか知らない。馬を売損《うりそこな》って、どうとかしたと云うところから、だんだん判然《はっきり》しなくなって、自然《じねん》と長蔵さんが消える。赤毛布が消える。小僧が消える。主人と茶と煙草盆が消えて、破屋《あばらや》までも消えた時、こくりと眠《ねむり》が覚《さ》めた。気がつくと頭が胸の上へ落ちている。はっと思って、擡《もちや》げるとはなはだ重い。主人はやっぱり馬の話をしている。まだ馬かと思ってるうちに、また気が遠くなった。気が遠くなったのを、遠いままにして打遣《うっちゃ》って置くと、忽然《こつぜん》ぱっと眼があいた。薄暗い部屋の中《うち》に、影のような長蔵さんと亭主が膝《ひざ》を突き合せている。ちょうど、借《かり》がどうとかしてハハハハと亭主が笑ったところだった。この亭主は額《ひたい》が長くって、斜《はす》に頭の天辺《てっぺん》まで引込《ひっこ》んでるから、横から見ると切通《きりどお》しの坂くらいな勾配《こうばい》がある。そうして上になればなるほど毛が生《は》えている。その毛は五分《ごぶ》くらいなのと一寸《いっすん》くらいなのとが交《まじ》って、不規則にしかも疎《まばら》にもじゃもじゃしている。自分が居眠《いねぶ》りからはっと驚いて、急に眼を開けると、第一にこの頭が眸《ひとみ》の底に映った。ランプが煤《す
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