す》だらけで暗いものだから、この頭も煤だらけになって映って来た。その癖距離は近い。だから映った影は明瞭《めいりょう》である。自分はこの明瞭でかつ朦朧《もうろう》なる亭主の頭を居眠りの不知覚から我に返る咄嗟《とっさ》にふと見たんである。この時はあまり好い心持ではなかった。それがため、居眠りもしばらく見合せるような気になって、部屋中を見廻すと、向うの隅に小僧が倒れている。こちらの横に茨城県が長く伸びている。毛布《けっと》の下から大きな足が見える。突当りが壁で、壁の隅に穴が開《あ》いて、穴の奥が真黒である。上は一面の屋根裏で、寒いほど黒くなってる所へ、油煙とともにランプの灯《ひ》があたるから、よく見ていると、藁葺《わらぶき》の裏側が震《ふる》えるように思われた。
 それからまた眠くなった。また頭が落ちる。重いから上げるとまた落ちる。始めのうちは、上げた頭が落ちながらだんだんうっとりして、うっとりの極、胸の上へがくりと落ちるや否や、一足飛《いっそくとび》に正気へ立ち戻ったが、三回四回と重なるにつけて、眼だけ開《あ》けても気は判然《はっきり》しない。ぼんやりと世界に帰って、またぞろすぐと不覚に陥《おちい》っちまう。それから例のごとく首が落ちる。微《かすか》に生きてるような気になる。かと思うとまた一切空《いっさいくう》に這入る。しまいには、とうとう、いくら首がのめって来ても、動じなくなった。あるいはのめったなり、頭の重みで横にぶっ倒れちまったのかも知れない。とにかく安々と夜明まで寝て、眼が覚《さ》めた時は、もう居眠《いねぶ》りはしていなかった。通例のごとく身体全体を畳の上につけて長くなっていた。そうして涎《よだれ》を垂れている。――自分は馬の話を聞いて居眠りを始めて、眼をあけて借金の話を聞いて、また居眠りの続を復習しているうちに、とうとう居眠りを本式に崩して長くなったぎり、魂の音沙汰《おとさた》を聞かなかったんだから、眼が覚めて、夜が明けて、世の中が土台から陰と陽に引ッ繰り返ってるのを見るや否《いな》や、眼をあいて涎《よだれ》を垂れて、横になったまま、じっとしていた。自覚があって死んでたらこんなだろう。生きてるけれども動く気にならなかった。昨夜《ゆうべ》の事は一から十までよく覚えている。しかし昨夜の一から十までが自然と延びて今日まで持ち越したとは受け取れない。自分の経験はすべてが新しくって、かつ痛切であるが、その新しい痛切の事々物々が何だか遠方にある。遠方にあると云うよりも、昨夜と今日の間に厚い仕切りが出来て、截然《せつぜん》と区別がついたようだ。太陽が出ると引き込むだけの差で、こう心に連続がなくなっては不思議なくらい自分で自分が当《あて》にならなくなる。要するに人世は夢のようなもんだ。とちょっと考えたもんだから、涎も拭かずに沈んでいると、長蔵さんが、ううんと伸《のび》をして、寝たまま握《にぎ》り拳《こぶし》を耳の上まで持ち上げた。握り拳がぬっと真直に畳の上を擦《こす》って、腕のありたけ出たところで、勢《せい》がゆるんで、ぐにゃりとした。また寝るかと思ったら、今度は右の手を下へさげて、凹《くぼ》んだ頬っぺたをぼりぼり掻《か》き出した。起きてるのかも知れない。そのうち、むにゃむにゃ何か云うんで、やっぱり眼が覚めていないなと気がついた時、小僧がむくりと飛び起きた。これは真正の意味において飛起きたんだから、どしんと音がして、根太《ねだ》が抜けそうに響いた。すると、さすが長蔵さんだけあって、むにゃむにゃをやめて、すぐ畳についた方の肩を、肘《ひじ》の高さまで上げた。眼をぱちつかせている。
 こうなると、自分もいつまで沈んでいたって際限がないから、起き上った。長蔵さんも全く起きた。小僧は立ち上がった。寝ているものは赤毛布《あかげっと》ばかりである。これはまた呑気《のんき》なもんで、依然として毛布《けっと》から大きな足を出してぐうぐう鼾声《いびき》をかいて寝ている。それを長蔵さんが起す。――
「御前《おまえ》さん。おい御前さん。もう起きないと御午《おひる》までに銅山《やま》へ行きつけないよ」
 御前さんが三四返繰返されたが、毛布はよく寝ている。仕方がないから長蔵さんは毛布の肩へ手を懸けて、
「おい、おい」
と揺《ゆす》り始めたんで、やむを得ず、毛布《けっと》の方でも「おい」と同じような返事をして、中途|半端《はんぱ》に立ち上った。これでみんな起きたようなものの、自分は顔も洗わず、飯も食わず、どうして好いか迷ってると、長蔵さんが、
「じゃ、そろそろ出掛けよう」
と云って、真先に土間へ降りかけたには驚いた。小僧がつづいて降りる。毛布も不得要領に土間へ大きな足をぶら下げた。こうなると自分も何とか片をつけなくっちゃならないから、一番あとから下駄を突掛《つッか》
前へ 次へ
全84ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング