たもっとも励精な人間であったなと云う自信が伴《ともな》ってくる。兵隊はああでなくっちゃいけないなどと考える事さえある。同時に、もし人間が物の用を無視し得るならば、かねて物の用をも忘れ得るものだと云う事も悟った。――こう書いて見たが、読み直すと何だかむずかしくって解らない。実を云うと、もっとずっとやさしいんだが、短く詰めるものだからこんなにむずかしくなっちまった。例《たと》えば酒を飲む権利はないと自信して、酒の徳を、あれどもなきがごとくに見做《みな》す事さえできれば、徳利が前に並んでも、酒は飲むものだとさえ気がつかずにいるくらいなところである。御互が泥棒にならずに済むのも、つまりを云えば幼少の時から、人工的にこの種の境界《きょうがい》に馴《な》らされているからの事だろう。が一方から云うと、こんな境界は人性の一部分を麻痺《まひ》さした結果としてでき上るもんだから、図に乗ってきゅきゅ押して行くと、人間がみんな馬鹿になっちまう。まあ泥棒さえしなければ好いとして、その他の精神器械は残らず相応に働く事ができるようにしてやるのが何よりの功徳《くどく》だと愚考する。自分が当時の自分のままで、のべつに今日《こんにち》まで生きていたならば、いかに順良だって、いかに励精だって、馬鹿に違ない。だれの眼から見たって馬鹿以上の不具《かたわ》だろう。人間であるからは、たまには怒《おこ》るがいい。反抗するがいい。怒るように、反抗するようにできてるものを、無理に怒らなかったり、反抗しなかったりするのは、自分で自分を馬鹿に教育して嬉しがるんだ。第一|身体《からだ》の毒である。それを迷惑だと云うなら、怒らせないように、反抗させないように、御膳立《おぜんだて》をするが至当じゃないか。
自分は当時種々の状況で、万事長蔵さんの云う通りはいはい云っていたし、またそのはいはいを自然と思いもするが、その代り、今のような身分にいるからは、たとい百の長蔵さんが、七日七晩《なぬかななばん》引っ張りつづけに引っ張ったってちょっとも動きゃしない。今の自分にはこの方が自然だからである。そうしてこう変るのが人間たるところだと思ってる。分りやすいように長蔵さんを引合《ひきあい》に出したが、よく調べて見ると、人間の性格は一時間ごとに変っている。変るのが当然で、変るうちには矛盾が出て来るはずだから、つまり人間の性格には矛盾が多いと云う意味になる。矛盾だらけのしまいは、性格があってもなくっても同じ事に帰着する。嘘《うそ》だと思うなら、試験して見るがいい。他人《ひと》を試験するなんて罪な事をしないで、まず吾身《わがみ》で吾身を試験して見るがいい。坑夫にまで零落《おちぶ》れないでも分る事だ。神さまなんかに聞いて見たって、以上|分《わかり》ッこない。この理窟《りくつ》がわかる神さまは自分の腹のなかにいるばかりだ。などと、学問もない癖に、学者めいた事を云っては済まない。こんな景気のいいタンカ[#「タンカ」に傍点]を切る所存は毛頭なかったんだが、実を云うとこう云う仔細《しさい》である。自分はよく人から、君は矛盾の多い男で困る困ると苦情を持ち込まれた事がある。苦情を持ち込まれるたんびに苦《にが》い顔をして謝罪《あやま》っていた。自分ながら、どうも困ったもんだ、これじゃ普通の人間として通用しかねる、何とかして改良しなくっちゃ信用を落して路頭に迷うような仕儀になると、ひそかに心配していたが、いろいろの境遇に身を置いて、前に述べた通りの試験をして見ると、改良も何も入ったものじゃない。これが自分の本色なんで、人間らしいところはほかにありゃしない。それから人も試験して見た。ところがやっぱり自分と同じようにできている。苦情を持ち込んでくるものが、みんな苦情を持ち込まれてしかるべき人間なんだからおかしくなる。要するに御腹《おなか》が減って飯が食いたくなって、御腹が張ると眠くなって、窮《きゅう》して濫《らん》して、達して道を行《おこな》って、惚《ほ》れていっしょになって、愛想《あいそ》が尽きて夫婦別れをするまでの事だから、ことごとく臨機応変の沙汰《さた》である。人間の特色はこれよりほかにありゃしない。と、こう感服しているんだから、ちょっと言って見たまでである。しかし世の中には学者だの坊主だの教育家だのと云うむずかしい仲間がだいぶいて、それぞれ専門に研究している事だから、自分だけ、訳の分ったように弁じ立てては善くない。
そこで元気のいい今の気焔《きえん》をやめて、再びもとの神妙《しんびょう》な態度に復して、山の中の話をする。長蔵さんが敷居の上に立って、往来を向きながら、ここへ泊って行こうと云い出した時、こんな破屋《あばらや》でも泊る事が出来るんだったと、始めて意識したよりも、すべての家と云うものが元来《がんらい》泊るために
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