らいは承知していたが、地獄で仏と云う諺《ことわざ》も記憶していたが、窮《きわ》まれば通ずという熟語も習った事があるが、困った時は誰か来て助けてくれそうなものだくらいに思って、芝居気を起しては困っていた事もたびたびあるが、――この時はまるで違う。真から一万人を畜生と思い込んで、その畜生がまたことごとく自分の敵だと考え詰めた最強度の断案を、忘るべからざる痛忿《つうふん》の焔《ほのお》で、胸に焼きつけた折柄だから、なおさらこの安さんに驚かされた。同時に安さんの訓戒が、自分の初志を一度に翻《ひるが》えし得るほどの力をもって、自分の耳に応《こた》えた。
 しばらくは二人して黙っていた。安さんは一応云うだけの事を云ってしまったんだから、口を利《き》かないはずであるが、自分は先方に対して、何とか返事をする義務がある。義務をかいては安さんに済まない。心底《しんそこ》から感謝の意を表《ひょう》した上で、自分の考えも少し聞いてもらいたいのは山々であったが、何分にも鼻の奥が詰って不自由である。しかも強《し》いて言葉を出そうとすると、口へ出ないで鼻へ抜けそうになる。それを我慢すると、唇の両端《りょうはじ》がむずむずして、小鼻がぴくついて来る。やがて鼻と口を塞《せ》かれた感動が、出端《では》を失って、眼の中にたまって来た。睫《まつげ》が重くなる。瞼《まぶた》が熱くなる。大《おおい》に困った。安さんも妙な顔をしている。二人ともばつ[#「ばつ」に傍点]が悪くなって、差し向いで胡坐《あぐら》をかいたまま、黙っていた。その時次の作事場《さくじば》で鉱《あらがね》を敲《たた》く音がかあんかあん鳴った。今考えると、自分と安さんが黙然《もくねん》と顔を見合せていた場所は、地面の下何百尺くらいな深さだか、それを正確に知って置きたかった。都会でも、こんな奇遇は少い。銅山《やま》の中では有ろうはずがない。日の照らない坑《あな》の底で、世から、人から、歴史から、太陽からも、忘れられた二人が、ありがたい誨《おしえ》を垂れて、尊《たっ》とい涙を流した舞台があろうとは、胡坐をかいて、黙然と互に顔を見守っていた本人よりほかに知るものはあるまい。
 安さんはまた煙草《たばこ》を呑《の》み出した。ぷかりぷかりと煙《けむ》が出た。その煙が濃く出ては暗がりに消え、濃く出ては暗がりに消える間に、自分はようやく声が自由になった。

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