な目的を持って来ても駄目だ。決心も目的もたった二三日《にさんち》で突ッつき殺されてしまう。それが気の毒だ。いかにも可哀想《かわいそう》だ。理想も何にもない鑿《のみ》と槌《つち》よりほかに使う術《すべ》を知らない野郎なら、それで結構だが。しかし君のような――君は学校へ行ったろう。――どこへ行った。――ええ? まあどこでもいい。それに若いよ。シキ[#「シキ」に傍点]へ抛《ほう》り込まれるには若過ぎるよ。ここは人間の屑《くず》が抛り込まれる所だ。全く人間の墓所《はかしょ》だ。生きて葬《ほうぶ》られる所だ。一度|踏《ふ》ん込《ご》んだが最後、どんな立派な人間でも、出られっこのない陥穽《おとしあな》だ。そんな事とは知らずに、大方ポン引《びき》の言いなりしだいになって、引張られて来たんだろう。それを君のために悲しむんだ。人一人を堕落させるのは大事件だ。殺しちまう方がまだ罪が浅い。堕落した奴はそれだけ害をする。他人に迷惑を掛ける。――実はおれもその一人《いちにん》だ。が、こうなっちゃ堕落しているよりほかに道はない。いくら泣いたって、悔《くや》んだって堕落しているよりほかに道はない。だから君は今のうち早く帰るがいい。君が堕落すれば、君のためにならないばかりじゃない。――君は親があるか……」
自分はただ一言《ひとこと》ある[#「ある」に傍点]と答えた。
「あればなおさらだ。それから君は日本人だろう……」
自分は黙っていた。
「日本人なら、日本のためになるような職業についたらよかろう。学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ。だから早く帰るがよかろう。東京なら東京へ帰るさ。そうして正当な――君に適当な――日本の損にならないような事をやるさ。何と云ってもここはいけない。旅費がなければ、おれが出してやる。だから帰れ。分ったろう。おれは山中組にいる。山中組へ来て安《やす》さんと聞きゃあすぐ分る。尋ねて来るが好い。旅費はどうでも都合してやる」
安さんの言葉はこれで終った。坑夫の数は一万人と聞いていた。その一万人はことごとく理非人情《りひにんじょう》を解しない畜類の発達した化物とのみ思い詰めたこの時、この人に逢《あ》ったのは全くの小説である。夏の土用に雪が降ったよりも、坑《あな》の中で安さんに説諭された方が、よほどの奇蹟《きせき》のように思われた。大晦日《おおみそか》を越すとお正月が来るく
前へ
次へ
全167ページ中148ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング