おれは正しい人間だ、曲った事が嫌《きらい》だから、つまりは罪を犯すようにもなったんだが、さて犯した以上は、どうする事もできない。学問も棄《す》てなければならない。功名も抛《なげう》たなければならない。万事が駄目だ。口惜《くや》しいけれども仕方がない。その上制裁の手に捕《とら》えられなければならない。(故意か偶然か、彼はとくに制裁の手と云う言語を使用した。)しかし自分が悪い覚《おぼえ》がないのに、むやみに罪を着るなあ、どうしても己《おれ》の性質としてできない。そこで突っ走った。逃げられるだけ逃げて、ここまで来て、とうとうシキ[#「シキ」に傍点]の中へ潜《もぐ》り込んだ。それから六年というもの、ついに日光《ひのめ》を見た事がない。毎日毎日坑の中でかんかん敲《たた》いているばかりだ。丸六年敲いた。来年になればもうシキ[#「シキ」に傍点]を出たって構わない、七年目だからな。しかし出ない、また出られない。制裁の手には捕《つら》まらないが、出ない。こうなりゃ出たって仕方がない。娑婆《しゃば》へ帰れたって、娑婆でした所業は消えやしない。昔は今でも腹ん中にある。なあ君昔は今でも腹ん中にあるだろう。君はどうだ……」
と途中で、いきなり自分に質問を掛けた。
 自分は藪《やぶ》から棒《ぼう》の質問に、用意の返事を持ち合せなかったから、はっと思った。自分の腹ん中にあるのは、昔《むかし》どころではない。一二年前から一昨日《おととい》まで持ち越した現在に等しい過去である。自分はいっその事自分の心事をこの男の前に打ち明けてしまおうかと思った。すると相手は、さも打ち明けさせまいと自分を遮《さえぎ》るごとくに、話の続きを始めた。
「六年ここに住んでいるうちに人間の汚ないところは大抵|見悉《みつく》した。でも出る気にならない。いくら腹が立っても、いくら嘔吐《おうと》を催《もよお》しそうでも、出る気にならない。しかし社会には、――日の当る社会には――ここよりまだ苦しい所がある。それを思うと、辛抱も出来る。ただ暗くって狭《せば》い所だと思えばそれで済む。身体も今じゃ銅臭《あかがねくさ》くなって、一日もカンテラ[#「カンテラ」に傍点]の油を嗅《か》がなくっちゃいられなくなった。しかし――しかしそりゃおれの事だ。君の事じゃない。君がそうなっちゃ大変だ。生きてる人間が銅臭くなっちゃ大変だ。いや、どんな決心でどん
前へ 次へ
全167ページ中147ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング