ありがたいです。なるほどあなたのおっしゃる通り人間のいる所じゃないでしょう。僕もあなたに逢《あ》うまでは、今日《きょう》限り銅山《やま》を出ようかと思ってたんです。……」
 さすが山を出て死ぬつもりだったとは云いかねたから、ここでちょっと句を切ったら、
「そりゃなおさらだ。さっそく帰るがいい」
と、安さんが勢いをつけてくれた。自分はやっぱり黙っていた。すると、
「だから旅費はおれが拵《こしら》えてやるから」
と云う。自分はさっきから旅費旅費と聞かされるのを、ただ善意に解釈していたが、さればと云って毫《ごう》も貰う気は起らなかった。昨日《きのう》飯場頭《はんばがしら》の合力《ごうりょく》を断った時の料簡《りょうけん》と同じかと云うと、それとも違う。昨日は是非貰いたかった、地平《じびた》へ手を突いてまで貰いたかった。しかし草鞋銭《わらじせん》を貰うよりも、坑夫になる方が得だと勘定したから、手を出して頂きたいところを、無理に断ったんである。安さんの旅費は始めから貰いたくない。好意を空《むな》しくすると云う点から見れば、貰わなければ済まないし、坑夫をやめるとすれば貰う方が便利だが、それにもかかわらず貰いたくなかった。これは今から考えると、全く向うの人格に対して、貰っては恥ずべき事だ、こちらの人格が下がるという念から萌《きざ》したものらしい。先方がいかにも立派だから、こっちも出来るだけ立派にしたい、立派にしなければ、自分の体面を損《そこな》う虞《おそれ》がある。向うの好意を享《う》けて、相当の満足を先方に与えるのは、こちらも悦《よろこ》ばしいが、受けるべき理由がないのに、濫《みだ》りに自己の利得のみを標準《めやす》に置くのは、乞食と同程度の人間である。自分はこの尊敬すべき安さんの前で、自分は乞食である、乞食以上の人物でないと云う事実上の証明を与えるに忍びなかった。年が若いと馬鹿な代りに存外|奇麗《きれい》なものである。自分は
「旅費は頂きません」
と断った。
 この時安さんは、煙草を二三ぶく吸《ふか》して、煙管《きせる》を筒《つつ》へ入れかけていたが、自分の顔をひょいと見て
「こりゃ失敬した」
と云ったんで、自分は非常に気の毒になった。もしやるから貰って置けとでも強いられたならきっと受けたに違ない。その後《ご》気をつけて、人が金を貰うところを見ていると、始めは一応辞退して、後
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