と思ったが、一人じゃ気味がわるいからな。だけども、好く上がって来たな。えらいや」
と待ちかねて、もじもじしていた初さんが大いに喜んでくれた。何でも梯子《はしご》の上でよっぽど心配していたらしい。自分はただ、
「少し気分が悪《わ》るかったから途中で休んでいました」
と答えた。
「気分が悪い? そいつあ困ったろう。途中って、梯子の途中か」
「ええ、まあそうです」
「ふうん。じゃ明日《あす》は作業もできめえ」
この一言《いちごん》を聞いた時、自分は糞《くそ》でも食《くら》えと思った。誰が土竜《もぐらもち》の真似なんかするものかと思った。これでも美しい女に惚《ほ》れられたんだと思った。坑《あな》を出れば、すぐ華厳《けごん》の瀑《たき》まで行くんだと思った。そうして立派に死ぬんだと思った。最後に半時もこんな獣《けだもの》を相手にしていられるものかと思った。そこで、自分は初さんに向って、簡単に、
「よければ上がりましょう」
と云った。初さんは怪訝《けげん》な顔をした。
「上がる? 元気だなあ」
自分は「馬鹿にするねえ、この明盲目《あきめくら》め。人を見損《みそく》なやがって」と云いたかった。しかし口だけは叮嚀《ていねい》に、一言《ひとこと》、
「ええ」
と返事をして置いた。初さんはまだぐずぐずしている。驚いたと云うよりも、やっぱり馬鹿にしたぐずつき方《かた》である。
「おい大丈夫かい。冗談《じょうだん》じゃねえ。顔色が悪いぜ」
「じゃ僕が先へ行きましょう」
と自分はむっとして歩き出した。
「いけねえ、いけねえ。先へ行っちゃいけねえ、後《あと》から尾《つ》いて来ねえ」
「そうですか」
「当前《あたりめえ》だあな。人つけ。誰が案内を置《お》き去《ざり》にして、先へ行く奴があるかい、何でい」
と初さんは、自分を払い退《の》けないばかりにして、先へ出た。出たと思うと急に速力を増した。腰を折ったり、四つに這《は》ったり、背中を横《よこ》っ丁《ちょ》にしたり、頭だけ曲げたり、坑《あな》の恰好《かっこう》しだいでいろいろに変化する。そうして非常に急ぐ。まるで土の中で生れて、銅脈の奥で教育を受けた人間のようである。畜生|中《ちゅう》っ腹《ぱら》で急ぎやがるなと、こっちも負けない気で歩き出したが、そこへ行くと、いくら気ばかり張っていても駄目だ。五つ六つ角を曲って、下りたり上《あが》ったり、が
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