点]が燃えている。仰向《あおむ》くと、泥で濡《ぬ》れた梯子段が、暗い中まで続いている。是非共登らなければならない。もし途中で挫折《ざせつ》すれば犬死になる。暗い坑《あな》で、誰も人のいない所で、日の目も見ないで、鉱《あらがね》と同じようにころげ落ちて、それっきり忘れられるのは――案内の初さんにさえ忘れられるのは――よし見つかっても半獣半人の坑夫共に軽蔑《けいべつ》されるのは無念である。是非共登り切っちまわなければならない。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]は燃えている。梯子は続いている。梯子の先には坑が続いている。坑の先には太陽が照り渡っている。広い野がある、高い山がある。野と山を越して行けば華厳の瀑がある。――どうあっても登らなければならない。
 左の手を頭の上まで伸ばした。ぬらつく段木を指の痕《あと》のつくほど強く握った。濡れた腰をうんと立てた。同時に右の足を一尺上げた。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》は暗い中を竪《たて》に動いて行く。坑は層一層《そういっそう》と明かるくなる。踏み棄《す》てて去る段々はしだいしだいに暗い中に落ちて行く。吐く息が黒い壁へ当る。熱い息である。そうして時々は白く見えた。次には口を結んだ。すると鼻の奥が鳴った。梯子はまだ尽きない。懸崖《けんがい》からは水が垂れる。ひらりとカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を翻《ひるが》えすと、崖《がけ》の面《おもて》を掠《かす》めて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ちついた時に、また真直に油煙を立てる。また翻《ひるが》えす。灯《ひ》は斜めに動く。梯子の通る一尺幅を外《はず》れて、がんがらがんの壁が眼に映《うつ》る。ぞっとする。眼が眩《くら》む。眼を閉《ねむ》って、登る。灯も見えない、壁も見えない。ただ暗い。手と足が動いている。動く手も動く足も見えない。手障足障《てざわりあしざわり》だけで生きて行く。生きて登って行く。生きると云うのは登る事で、登ると云うのは生きる事であった。それでも――梯子はまだある。
 それから先はほとんど夢中だ。自分で登ったのか、天佑《てんゆう》で登ったのかほとんど判然しない。ただ登り切って、もう一段も握る梯子がないと云う事を覚《さと》った時に、坑の中へぴたりと坐った。
「どうした。上がって来たか。途中で死にゃしねえかと思って、――あんまり長えから。見に行こうか
前へ 次へ
全167ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング