たつかせているうちに、初さんは見えなくなった。と思うと、何とかして、何とか、てててててと云う歌を唄《うた》う。初さんの姿が見えないのに、初さんの声だけは、坑の四方へ反響して、籠《こも》ったように打ち返してくる。意地の悪い野郎だと思った。始めのうちこそ、追っついてやるから今に見ていろと云う勢《いきおい》で、根限《こんかぎ》り這ったり屈《かが》んだりしたが、残念な事には初さんの歌がだんだん遠くへ行ってしまう。そこで自分は追いつく事はひとまず断念して、初さんのてててててを道案内にして進む事にした。当分はそれで大概の見当《けんとう》がついたが、しまいにはそのててててても怪しくなって、とうとうまるで聞えなくなった時には、さすがに茫然《ぼうぜん》とした。一本道なら初さんなんどを頼りにしなくっても、自力《じりき》で日の当る所まで歩いて出て見せるが、何しろ、長年《ながねん》掘荒した坑《あな》だから、まるで土蜘蛛《つちぐも》の根拠地みたようにいろいろな穴が、とんでもない所に開《あ》いている。滅多《めった》な穴へ這入《はい》るとまた腰きり水に漬《つか》る所か、でなければ、例の逆《さか》さの桟道《さんどう》へ出そうで容易に踏み込めない。
 そこで自分は暗い中に立ち留って、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》を見詰めながら考えた。往きには八番坑まで下りて行ったんだから帰りには是非共電車の通る所まで登らなければならない。どんな穴でも上《のぼ》りならば好いとする。その代り下りなら引返して、また出直す事にする。そうして迂路《うろ》ついていたら、どこかの作事場《さくじば》へ出るだろう。出たら坑夫に聞くとしよう。こう決心をして、東西南北の判然しない所を好い加減に迷《まご》ついていた。非常に気が急《せ》いて息が切れたが、めちゃめちゃに歩いたために足の冷たいのだけは癒《なお》った。しかしなかなか出られない。何だか同じ路を往ったり来たりするような案排《あんばい》で、あんまり、もどかしものだから、壁へ頭をぶつけて割っちまいたくなった。どっちを割るんだと云えば無論頭を割るんだが、幾分か壁の方も割れるだろうくらいの疳癪《かんしゃく》が起った。どうも歩けば歩くほど天井《てんじょう》が邪魔になる、左右の壁が邪魔になる。草鞋《わらじ》の底で踏む段々が邪魔になる。坑総体が自分を閉じ込めて、いつまで立っても出してく
前へ 次へ
全167ページ中142ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング