んだから、教えられた通り這った。ところが右にはカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げている。左の手の平《ひら》だけを惜気《おしげ》もなく氷のような泥だか岩だかへな土だか分らない上へぐしゃりと突いた時は、寒さが二の腕を伝わって肩口から心臓へ飛び込んだような気持がした。それでカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を下へ着けまいとすると、右の手が顔とすれすれになって、はなはだ不便である。どうしたもんだろうと、この姿勢のままじっとしていた。そうして、右の手で宙に釣っているカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を見た。ところへぽたりと天井《てんじょう》からしずくが垂れた。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》がじいと鳴った。油煙が顎《あご》から頬へかかる。眼へも這入《はい》った。それでもこの灯を見詰めていた。すると遠くの方でかあん、かあん、と云う音がする。坑夫が作業をしているに違ないが、どのくらい距離があるんだか、どの見当《けんとう》にあたるんだか、いっこう分らない。東西南北のある浮世の音じゃない。自分はこの姿勢でともかくも二三歩歩き出した。不便は無論不便だが、歩けない事はない。ただ時々しずくが落ちてカンテラ[#「カンテラ」に傍点]のじいと鳴るのが気にかかる。初さんは先へ行ってしまった。頼《たより》はカンテラ[#「カンテラ」に傍点]一つである。そのカンテラ[#「カンテラ」に傍点]がじいと鳴って水のために消えそうになる。かと思うとまた明かるくなる。まあよかったと安心する時分に、またぽたりと落ちて来る。じいと鳴る。消えそうになる。非常に心細い。実は今までも、しずくは始終《しじゅう》垂れていたんだが、灯《ひ》が腰から下にあるんで、いっこう気がつかなかったんだろう。灯が耳の近くへ来て、じいと云う音が聞えるようになってから急に神経が起って来た。だから這う方はなお遅くなる。しかもまだ三足しか歩いちゃいない。ところへ突然初さんの声がした。
「やい、好い加減に出て来ねえか。何をぐずぐずしているんだ。――早くしないと日が暮れちまうよ」
暗いなかで初さんはたしかに日が暮れちまうと云った。
自分は這《は》いながら、咽喉仏《のどぼとけ》の角《かど》を尖《とが》らすほどに顎《あご》を突き出して、初さんの方を見た。すると一間《いっけん》ばかり向うに熊の穴見たようなものがあって、その穴から、初さんの顔が
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