わ》ったが、役人は別に自分の方を見向もしなかった。その代り立っていた坑夫はみんな見た。しかし役人の前を憚《はばか》ってだろう、全く一言《ひとこと》も口を利《き》いたものはなかった。
溜を出るや否や坑《あな》の様子が突然変った。今までは立ってあるいても、背延《せいの》びをしても届きそうにもしなかった天井が急に落ちて来て、真直《まっすぐ》に歩くと時々頭へ触《さわ》るような気持がする。これがものの二寸も低かろうものなら、岩へぶつかって眉間《みけん》から血が出るに違ないと思うと、松原をあるくように、ありったけの背で、野風雑《のふうぞう》にゃやって行けない。おっかないから、なるべく首を肩の中へ縮め込んで、初さんに食っついて行った。もっともカンテラ[#「カンテラ」に傍点]はさっき点《つ》けた。
すると三尺ばかり前にいる初さんが急に四《よつ》ん這《ば》いになった。おや、滑《すべ》って転んだ。と思って、後《うしろ》から突っ掛かりそうなところを、ぐっと足を踏ん張った。このくらいにして喰い留めないと、坂だから、前へのめる恐《おそれ》がある。心持腰から上を反《そ》らすようにして、初さんの起きるのを待ち合わしていると、初さんはなかなか起きない。やっぱり這《は》っている。
「どうか、しましたか」
と後から聞いた。初さんは返事もしない。――はてな――怪我でもしやしないかしら――もう一遍聞いて見ようか――すると初さんはのこのこ歩き出した。
「何ともなかったですか」
「這うんだ」
「え?」
「這うのだてえ事よ」
と初さんの声はだんだん遠くなってしまう。その声で自分は不審を打った。いくら向うむきでも、普通なら明かに聞きとられべき距離から出るのに、急に潜《もぐ》ってしまう。声が細いんじゃない。当り前の初さんの声が袋のなかに閉じ込められたように曖昧《あいまい》になる。こりゃただ事じゃないと気がついたから、透《すか》して見るとようやく分った。今までは尋常に歩けた坑が、ここでたちまち狭《せま》くなって、這わなくっちゃ抜けられなくなっている。その狭い入口から、初さんの足が二本出ている。初さんは今胴を入れたばかりである。やがて出ていた足が一本這入った。見ているうちにまた一本這入った。これで自分も四つん這いにならなくっちゃ仕方がないと諦《あきら》めをつけた。「這うんだ」と初さんの教えたのもけっして無理じゃない
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