――顔らしいものが出ている。自分があまり手間取るんで、初さんが屈《こご》んでこっちを覗《のぞ》き込んでるところであった。この一間をどうして抜け出したか、今じゃ善く覚えていない。何しろできるだけ早く穴まで来て、首だけ出すと、もう初さんは顔を引っ込まして穴の外に立っている。その足が二本自分の鼻の先に見えた。自分はやれ嬉《うれ》しやと狭い所を潜《くぐ》り抜けた。
「何をしていたんだ」
「あんまり狭いもんだから」
「狭いんで驚いちゃ、シキ[#「シキ」に傍点]へは一足《ひとあし》だって踏《ふ》ん込《ご》めっこはねえ。陸《おか》のように地面はねえ所《とこ》だくらいは、どんな頓珍漢《とんちんかん》だって知ってるはずだ」
初さんはたしかに坑《あな》の中は陸のように地面のない所だと云った。この人は時々思い掛けない事を云うから、今度もたしかにとただし書《がき》をつけて、その確実な事を保証して置くんである。自分は何か云い訳をするたんびに、初さんから容赦なくやっつけられるんで、大抵は黙っていたが、この時はつい、
「でもカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が消えそうで、心配したもんですから」
と云っちまった。すると初さんは、自分の鼻の先へカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を差しつけて、徐《おもむろ》に自分の顔を検査し始めた。そうして、命令を下した。
「消して見ねえ」
「どうしてですか」
「どうしてでも好いから、消して見ねえ」
「吹くんですか」
初さんはこの時大きな声を出して笑った。
自分は喫驚《びっくり》して稀有《けう》な顔をしていた。
「冗談《じょうだん》じゃねえ。何が這入《へっ》てると思う。種油《たねあぶら》だよ、しずくぐらいで消《けえ》てたまるもんか」
自分はこれでやっと安心した。
「安心したか。ハハハハ」
と初さんがまた笑った。初さんが笑うたんびに、坑《あな》の中がみんな響き出す。その響が収まると前よりも倍静かになる。ところへかあん、かあんとどこかで鑿《のみ》と槌《つち》を使ってる音が伝わって来る。
「聞えるか」
と、初さんが顋《あご》で相図をした。
「聞えます」
と耳を峙《そばだ》てていると、たちまち催促を受けた。
「さあ行こう。今度《こんだ》あ後《おく》れないように跟《つ》いて来な」
初さんはなかなか機嫌がいい。これは自分が一も二もなく初さんにやられているせいだろうと思った。
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