婆さんは、ちょっと自分を見たなりで、
「あっち」
と云い捨てて門口《かどぐち》の方へ行った。まるで相手にしちゃいない。自分にはあっち[#「あっち」に傍点]の見当《けんとう》がわからなかったが、とにかく婆さんの出て来た方角だろうと思って、奥の方へ歩いて行ったら、大きな台所へ出た。真中に四斗樽《しとだる》を輪切にしたようなお櫃《はち》が据《す》えてある。あの中に南京米《ナンキンまい》の炊《た》いたのがいっぱい詰ってるのかと思ったら、――何しろ自分が三度三度一箇月食っても食い切れないほどの南京米なんだから、食わない前からうんざりしちまった。――顔を洗う所も見つけた。台所を下りて長い流の前へ立って、冷たい水で、申し訳のために頬辺《ほっぺた》を撫《な》でて置いた。こうなると叮嚀《ていねい》に顔なんか洗うのは馬鹿馬鹿しくなる。これが一歩進むと、顔は洗わなくっても宜《い》いものと度胸が坐ってくるんだろう。昨日《きのう》の赤毛布《あかげっと》や小僧は全くこう云う順序を踏んで進化したものに違ない。
 顔はようやく自力で洗った。飯はどうなる事かと、またのそのそ台所へ上《あが》った。ところへ幸《さいわ》い婆さんが表から帰って来て膳立《ぜんだ》てをしてくれた。ありがたい事に味噌汁《みそしる》がついていたんで、こいつを南京米の上から、ざっと掛けて、ざくざくと掻《か》き込んだんで、今度《こんだ》は壁土の味を噛《か》み分《わけ》ないで済んだ。すると婆さんが、
「御飯《おまんま》が済んだら、初《はつ》さんがシキ[#「シキ」に傍点]へ連れて行くって待ってるから、早くおいでなさい」
と、箸《はし》も置かない先から急《せ》き立てる。実はもう一杯くらい食わないと身体《からだ》が持つまいと思ってたところだが、こう催促されて見ると、無論御代りなんか盛《よそ》う必要はない。自分は、
「はあ、そうですか」
と立ち上がった。表へ出て見ると、なるほど上《あが》り口《くち》に一人掛けている。自分の顔を見て、
「御前《おめえ》か、シキ[#「シキ」に傍点]へ行くなあ」
と、石でもぶっ欠くような勢いで聞いた。
「ええ」
と素直に答えたら、
「じゃ、いっしょに来ねえ」
と云う。
「この服装《なり》でも好いんですか」
と叮嚀《ていねい》に聞き返すと、
「いけねえ、いけねえ。そんな服装で這入《へえ》れるもんか。ここへ親分とこから一
前へ 次へ
全167ページ中106ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング