うと二つ返事で承知する馬鹿は、天下広しといえども、尻端折《しりはしょり》で夜逃をした自分くらいと思っていた。したがって長蔵さんのような気楽な商売は日本にたった一人あればたくさんで、しかもその一人が、まぐれ当りに自分に廻《めぐ》り合せると云う運勢をもって生れて来なくっちゃ、とても商売にならないはずだ。だから大川端《おおかわばた》で眼の下三尺の鯉《こい》を釣るよりもよっぽどの根気仕事だと、始めから腰を据《す》えてかかるのが当然なんだが、長蔵さんはとんとそんな自覚は無用だと云わぬばかりの顔をして、これが世間もっとも普通の商売であると社会から公認されたような態度で、わるびれずに往来の男を捉《つら》まえる。するとその捉まえられた男が、不思議な事に、一も二もなく、すぐにうんと云う。何となくこれが世間もっとも普通の商売じゃあるまいかと疑念を起すように成功する。これほど成功する商売なら、日本に一人じゃとても間に合わない、幾人《いくたり》あっても差支《さしつかえ》ないと云う気になる。――当人は無論そう思ってるんだろう。自分もそう思った。
この呑気《のんき》な長蔵さんと、さらに呑気な小僧に赤毛布《あかげっと》と、それから見様見真似《みようみまね》で、大いに呑気になりかけた自分と、都合四人で橋向うの小路《こみち》を左へ切れた。これから川に沿って登りになるんだから、気をつけるが好いと云う注意を受けた。自分は今|芋《いも》を食ったばかりだから、もう空腹じゃない。足は昨夕《ゆうべ》から歩き続けで草臥《くたび》れてはいるが、あるけばまだ歩ける。そこで注意の通り、なるべく気をつけて、長蔵さんと赤毛布の後《あと》を跟《つ》けて行った。路《みち》があまり広くないので四人《よつたり》は一行《いちぎょう》に並べない。だから後を跟ける事にした。小僧は小さいからこれも一足|後《おく》れて、自分と摺々《すれすれ》くらいになって食っついてくる。
自分は腹が重いのと、足が重いのとの両方で、口を利《き》くのが厭《いや》になった。長蔵さんも橋を渡ってから以後とんと御前さんを使わなくなった。赤毛布はさっき一膳飯屋の前で談判をした時から、余り多弁ではなかったが、どう云うものかここに至ってますます無口となっちまった。小僧の無口はさらにはなはだしかった。穿《は》いている冷飯草履《ひやめしぞうり》がぴちゃぴちゃ鳴るばかりであ
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