る。
 こう、みんな黙ってしまうと、山路は静かなものである。ことに夜だからなお淋《さび》しい。夜と云ったって、まだ日が落ちたばかりだから、歩いてる道だけはどうか、こうか分る。左手を落ちて行く水が、気のせいか、少しずつ光って見える。もっともきらきら光るんじゃない。なんだか、どす黒く動く所が光るように見えるだけだ。岩にあたって砕ける所は比較的|判然《はっきり》と白くなっている。そうしてその声がさあさあと絶え間なくする。なかなかやかましい。それでなかなか淋しい。
 その中《うち》細い道が少しずつ、上《のぼ》りになるような気持がしだした。上りだけならこのくらいな事はそう骨は折れないんだが、路が何だか凸凹《でこぼこ》する。岩の根が川の底から続いて来て、急に地面の上へ出たり、引っ込んだりするんだろう。この凸凹に下駄《げた》を突っ掛ける。烈《はげ》しいときは内臓が飛び上がるようになる。だいぶ難義になって来た。長蔵さんと赤毛布は山路に馴《な》れていると見えて、よくも見えない木下闇《こしたやみ》を、すたすた調子よくあるいて行く。これは仕方がないが、小僧が――この小僧は実際物騒である。冷飯草履をぴしゃぴしゃ云わして、暗い凸凹を平気に飛び越して行く。しかも全く無言である。昼間ならさほどにも思わないんだが、この際だから、薄暗い中でぴしゃりぴしゃりと草履の尻の鳴るのが気になる。何だか蝙蝠《こうもり》といっしょに歩いてるようだ。
 そのうち路がだんだん登りになる。川はいつしか遠くなる。呼息《いき》が切れる。凸凹はますます烈《はげ》しくなる。耳ががあんと鳴って来た。これが駆落《かけおち》でなくって、遠足なら、よほど前から、何とか文句をならべるんだが、根が自殺の仕損《しそこな》いから起った自滅の第一着なんだから、苦しくっても、辛《つら》くっても、誰に難題を持ち掛ける訳にも行かない。相手は誰だと云えば、自分よりほかに誰もいやしない。よしいたって、こだわるだけの勇気はない。その上|先方《さき》は相手になってくれないほど平気である。すたすた歩いて行く。口さえ利《き》かない。まるで取附端《とっつきは》がない。やむを得ず呼吸《いき》を切らして、耳をがあんと鳴らして、黙って後《あと》から神妙《しんびょう》に尾《つ》いて行く。神妙と云う字は子供の時から覚えていたんだが、神妙の意味を悟ったのはこの時が始めてである
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