ると、行く先は山だろうが、河だろうが、あまり苦にはならない。自分は幸か不幸か、中以上の家庭に生れて、昨日《きのう》の午後九時までは申し分のない坊ちゃんとして生活していた。煩悶《はんもん》も坊ちゃんとしての煩悶であったのは勿論《もちろん》だが、煩悶の極《きょく》試みたこの駆落《かけおち》も、やっぱり坊ちゃんとしての駆落であった。さればこそ、この駆落に対して、不相当にもったいぶった意味をつけて、ありがたがらないまでも、一生の大事件のように考えていた。生死《しょうし》の分れ路のように考えていた。と云うものは坊ちゃんの眼で見渡した世の中には、駆落をしたものは一人もない。――たまにあれば新聞にあるばかりである。ところが新聞では駆落が平面になって、一枚の紙に浮いて出るだけで、云わばあぶり出しの駆落だから、食べたって身にはならない。あたかも別世界から、電話がかかったようなもので、はあ、はあ、と聞いてる分の事である。だから本当の意味で切実な駆落をするのは自分だけだと云うありがたみがつけ加わってくる。もっとも自分はただ煩悶して、ただ駆落をしたまでで、詩とか美文とか云うものを、あんまり読んだ事がないから、自分の境遇の苦しさ悲しさを一部の小説と見立てて、それから自分でこの小説の中を縦横《じゅうおう》に飛び廻って、大いに苦しがったりまた大いに悲しがったりして、そうして同時に自分の惨状を局外から自分と観察して、どうも詩的だなどと感心するほどなませた考えは少しもなかった。自分が自分の駆落に不相当なありがたみをつけたと云うのは、自分の不経験からして、さほど大袈裟《おおげさ》に考えないでも済む事を、さも仰山《ぎょうさん》に買い被《かぶ》って、独《ひと》りでどぎまぎしていた事実を指《さ》すのである。しかるにこのどぎまぎが赤毛布に逢《あ》い、小僧に逢って、両人《ふたり》の平然たる態度を見ると共に、いつの間にやら薄らいだのは、やっぱり経験の賜《たまもの》である。白状すると当時の赤毛布でも当時の小僧でも、当時の自分よりよっぽど偉かったようだ。
こう手もなく赤毛布がかかる。小僧がかかる。そう云う自分も、たわいもなく攻め落された事実を綜合《そうごう》して考えて見ると、なるほど長蔵さんの商売も、満更《まんざら》待ち草臥《くたびれ》の骨折損になる訳でもなかった。坑夫になれますよ、はあ、なれますか、じゃなりましょ
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