うなものである。デフォーは一種の写実家である。ロビンソンクルーソーを読んでテニソンのイノック・アーデンのように詩趣がないと云う。ここまではなるほどと降参せねばならぬ。しかしそれだからロビンソンクルーソーは作物にならないと云うのは歌麿の風俗画には美人があるが、ギド・レニのマグダレンは女になっておらんと主張するようなものである。――例を挙《あ》げれば際限がないからやめる。
作家が評家に呈出する答案はかくのごとく多種多面である。評家は中学の教師のごとく部門をわけて採点するかまたは一人で物理、数学、地理、歴史の智識を兼ねなければならぬ。今の評家は後者である。いやしくも評家であって、専門の分岐《ぶんき》せぬ今の世に立つからには、多様の作家が呈出する答案を検閲するときにあたって、いろいろに立場を易《か》えて、作家の精神を汲《く》まねばならぬ。融通のきかぬ一本調子の趣味に固執《こしゅう》して、その趣味以外の作物を一気に抹殺《まっさつ》せんとするのは、英語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、すべての答案を英語の尺度で採点してしまうと一般である。その尺度に合せざる作家はことごとく落第の悲運に際会
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