志士と云い、勇士と云い、智者と云い、善人と云われたるものもここにおいてかたちまちに浪人《ろうにん》となり、暴士となり、盲者となり、悪人となる。
 今の評家のあるものは、ある点においてこの教師に似ていると思う。もっとも尊敬すべき言語をもって評家を翻訳すれば教師である。もっとも謙遜《けんそん》したる意義において作家を解釈すれば生徒である。生徒の点数は教師によって定まる。生徒の父兄|朋友《ほうゆう》といえどもこの権利をいかんともする事はできん。学業の成蹟《せいせき》は一に教師の判断に任せて、不平をさしはさまざるのみならず、かえってこれによって彼らの優劣を定めんとしつつある。一般の世間が評家に望むところは正にこれにほかならぬ。
 ただ学校の教師には専門がある。担任がある。評家はここまで発達しておらぬ。たまには詩のみ評するもの、劇のみ品するものもあるが、しかしそれすら寥々《りょうりょう》たるものである。のみならずこれらの分類は形式に属する分類であるから、専門として独立する価値があるかないかすでに疑問である。して見ると、つまりは純文学の批評家は純文学の方面に関するあらゆる創作を検閲して採点しつつあ
前へ 次へ
全16ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング