》低徊趣味は長篇ならば兎《と》に角《かく》、こんな短かいものにそんな趣味のあらわれる訳がないと。所が事実は反対である。長いものになると、そう単調に進行する事が出来んから、自然だれの作物でも余事が混入してくるし、又|頁《ページ》の数から云っても余裕は出来易《できやす》い。だから長篇ものに所々此趣味が散点して居ても、取り立ててこれが作者の趣味だと言い切る訳には行かない。所が短篇ものになると頁数に限りがある。其限りがあるうちで人の眼につく様に此趣味を出すと云えば作者の嗜好《しこう》は判然として争うべき余地はない。
虚子の風流懺法《ふうりゅうせんぽう》には子坊主《こぼうず》が出てくる。所が此小坊主がどうしたとか、こうしたとか云うよりも祇園《ぎおん》の茶屋で歌をうたったり、酒を飲んだり、仲居《なかい》が緋《ひ》の前垂《まえだれ》を掛けて居たり、舞子が京都風に帯を結んで居たりするのが眼につく。言葉を換えると、虚子は小坊主の運命がどう変ったとか、どうなって行くとか云う問題よりも妓楼一夕《ぎろういっせき》の光景に深い興味を有《も》って、其光景を思い浮べて恋々たるのである。此光景を虚子と共に味わう気が
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