なくっては、始から風流懺法は物にならん。斑鳩物語《いかるがものがたり》も其の通である。所は奈良で、物寂《ものさ》びた春の宿に梭《ひ》の音が聞えると云う光景が眼前に浮んで飽《あ》く迄《まで》これに耽《ふけ》り得る丈《だけ》の趣味を持って居ないと面白くない。お道さんとか云う女がどうしましたねとお道さんの運命ばかり気にして居ては極《きわ》めて詰らない。楽屋も其通り。なかに出てくる吉野さんよりも能の楽屋の景色や照葉狂言《てりはきょうげん》の楽屋の景色其物に興味がないと極めて物足らない小説になるかも知れぬ。勝敗は多少意味が違うが兎《と》に角《かく》腕白な子供と爺《じい》さんの対話其物に低徊拍掌《ていかいはくしょう》の感を起さなくては意味さえ分らなくなる。子供と爺さんが夫《それ》から先どうなったにも、こうなったにも丸《まる》で頭も尻尾《しっぽ》もありゃしない。八文字に至っては其極端である。
 こう云う立場からして読んで見ると虚子の小説は面白い所がある。我々が気の付かない所や言い得ない様な所に低徊趣味を発揮して居る。此集には見えないが京の隧道《ずいどう》を舟で抜ける所|抔《など》は未《いま》だに余が
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