難いと云う風な趣味を指すのである。だから低徊趣味と云わないでも依々趣味、恋々趣味と云ってもよい。所が此趣味は名前のあらわす如く出来る丈《だけ》長く一つ所に佇立《ちょりつ》する趣味であるから一方から云えば容易に進行せぬ趣味である。換言すれば余裕がある人でなければ出来ない趣味である。間人《かんじん》が買物に出ると途中で引かかる。交番の前で鼠《ねずみ》をぶら下げて居る小僧を見たり、天狗連《てんぐれん》の御浚《おさら》えを聴いたりして肝腎《かんじん》の買物は中々弁じない。所が忙がしい人になると、そんな余裕はない。買物に出たら買物が目的である。買物さえ買えば、それで目的は達せられたのである。小説も其通りである。篇中の人物の運命、ことに死ぬるか活きるかと云う運命|丈《だけ》に興味を置いて居ると自然と余裕はなくなってくる。従ってセッパ詰って低徊趣味《ていかいしゅみ》は減じて来る。
 そこで低徊趣味も客観的とか主観的とか区別すれば色々になるが、それは面倒だから暫《しば》らく云わぬとしても、虚子の小説には此余裕から生ずる低徊趣味が多いかと思う。或人は云うかも知らぬ虚子の小説は皆短篇である。所謂《いわゆる
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