只《ただ》ある人々の唱《とな》える意味に於《おい》て触れない小説と云ったら一番はや分りがするだろうと思って、曖昧ながらわざわざ此字面を拝借したのである。と云うものは、まず字の定義は御互の間に黙契があるとして、ある人々は触れなければ小説にならないと考えて居る。だから余はとくに触れない小説と云う一種の範囲を拵《こし》らえて、触れない小説も亦《また》、触れた小説と同じく存在の権利があるのみならず、同等の成功を収め得るものだと主張するのである。
 触れない小説の意味をもう少し説明しないと余の所存が貫徹しまいと思う。余は自己の考を述べて、こんな風にも小説は解釈が出来るものだと読者から認めて貰《もら》えば好い。喧嘩《けんか》を売る料簡《りょうけん》でもなし、売られた喧嘩《けんか》を買う気もない。従がって思う通りを思う通りに述べて誤解のないように力《つと》めて置かなければならない。
 個人の身の上でも、一国の歴史でも相互の関係(利害問題にせよ、徳義問題にせよ、其他種々な問題)から死活の大事件が起ることがある。すると渾身《こんしん》全国|悉《ことごと》く其事件になり切って仕舞《しま》う。普通の人間の様
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