作物が多趣多様で到底《とうてい》概括し得ぬからと云う意味ではない。又は虚子が空前の大才で在来西洋人の用を足して来た分類語では、其の作物に冠する資格がないと云う意味でもない。虚子の作物を読むにつけて、余は不図《ふと》こんな考えが浮んだ。天下の小説を二種に区別して、其の区別に関聯《かんれん》して虚子の作物に説き及ぼしたらどうだろう。
 所謂《いわゆる》二種の小説とは、余裕のある小説と、余裕のない小説である。ただ是丈《これだけ》では殆《ほと》んど要領を得ない。のみならず言句にまつわると褒貶《ほうへん》の意を寓《ぐう》してあるかの様にも聞える。かたがた説明の要がある。
 余裕のある小説と云うのは、名の示す如く逼《せま》らない小説である。「非常」と云う字を避けた小説である。不断着の小説である。此間中|流行《はや》った言葉を拝借すると、ある人の所謂《いわゆる》触れるとか触れぬとか云ううちで、触れない小説である。無論触れるとか触れないとか云う字が曖昧《あいまい》であって、しかも余は世間の人の用いる通り好加減《いいかげん》な意味で用いて居るのだから、此字に対して明かな責任は持たない積《つも》りである。
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