っても難有《ありがた》くなくなる。辱《はずか》しめられても恥とは思わなくなる。と云うものは凡《すべ》て是等《これら》の現象界の奥に自己の本体はあって、此流俗と浮沈するのは徹底に浮沈するのではない。しばらく冗談半分《じょうだんはんぶん》に浮沈して居るのである。いくら猛烈に怒っても、いくらひいひい泣いても、怒りが行き留りではない、涙が突き当りではない。奥にちゃんと立《た》ち退《の》き場《ば》がある。いざとなれば此|立退場《たてのきば》へいつでも帰られる。しかも此立退場は不増である。不減である。いくら天下様の御威光でも手のつけ様のない安全な立退場である。此立退場を有《も》って居る人の喜怒哀楽と、有たない人の喜怒哀楽とは人から見たら一様かも知れないが之《これ》を起す人之を受ける人から云うと莫大《ばくだい》な相違がある。従って流俗で云う第一義の問題も此見地に住する人から云うと第二義以下に堕《お》ちて仕舞《しま》う。従がって我等から云ってセッパ詰った問題も此人等から云うと余裕のある問題になる。
 所謂《いわゆる》禅味と云うものを解釈した人があるかないか知らないが、禅坊主の趣味だから禅味と云うのだろ
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