う。そうして禅坊主の悟りと云うものが彼等の云う通りのものであったなら余の解釈に間違はなかろうと思う。して見ると禅味と云う事は暗《あん》に余裕のある文学と云う意味に一致する。そうしてその余裕は生死以上に第一義を置くから出てくる。
 余は虚子の小説を評して余裕があると云った。虚子の小説に余裕があるのは果《はた》して前条の如く禅家の悟を開いた為かどうだか分らない。只《ただ》世間ではよく俳味禅味と並べて云う様である。虚子は俳句に於て長い間苦心した男である。従がって所謂《いわゆる》俳味なるものが流露して小説の上にあらわれたのが一見禅味から来た余裕と一致して、こんな余裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに方《あた》っては是丈《これだけ》の事を述べる必要があると思う。
 尤《もっと》も虚子もよく移る人である。現に集中でも秋風なんと云うのは大分風が違って居る。それでも比較的痛切な題目に対する虚子の叙述的態度は依然として余裕がある様である。虚子は畢竟《ひっきょう》余裕のある人かも知れない。
  明治四十年十一月



底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房 
   1972(昭和4
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