成程《なるほど》是等《これら》の作物は第一義の道念に触れて居るかも知れぬ。然し其第一義というのは生死界中に在《あ》っての第一義である。どうしても生死を脱離し得ぬ煩脳底《ぼんのうてい》の第一義である。人生観が是より以上に上れぬとすると是が絶対的に第一義かも知れぬが、もし生死の関門を打破して二者を眼中に措《お》かぬ人生観が成立し得るとすると今の所謂《いわゆる》第一義は却《かえ》って第二義に堕在するかも知れぬ。俳味禅味の論がここで生ずる。
 余は禅というものを知らない。昔《むか》し鎌倉の宗演和尚に参して父母未生以前《ふもみしょういぜん》本来の面目はなんだと聞かれてがんと参ったぎりまだ本来の面目に御目《おめ》に懸《かか》った事のない門外漢である。だからここに禅味|抔《など》という問題を出すのは自分が禅を心得て居るから云うのではない。智識《ちしき》のかいたものに悟とはこんなものであるとあるから果《はた》してそんなものなら、こう云う人生観が出来るだろう。こう云う人生観が出来るならば小説もこんな態度にかけるだろうと論ずるまでである。
 禅坊主の書いた法語とか語録とか云うものを見ると魚が木に登ったり牛
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