一言にして云うとセッパ詰った小説を云うのである。息の塞《ふさが》る様な小説を云うのである。一毫《いちごう》も道草を食ったり寄道をして油を売ってはならぬ小説を云うのである。呑気《のんき》な分子、気楽な要素のない小説を云うのである。たとえばイブセンの脚本を小説に直した様なものを云うのである。大いに触れたものを云うのである。所謂《いわゆる》イブセンの書いたもの抔《など》は先《ま》ず吾人の一生の浮沈に関する様な非常な大問題をつらまえて来て其問題の解決がしてある。しかも其解決が普通の我々が解決する様な月並でなくってへえと驚ろく様な解決をさせる事がある。人は之《これ》を称して第一義の道念に触れるとも、人生の根元に徹するとも評して居る。成程《なるほど》吾々凡人より高く一隻眼《いっせきがん》を具して居ないとあんな御手際《おてぎわ》は覚束《おぼつか》ない。只《ただ》此点|丈《だけ》でも敬服の至りである。然し斯様《かよう》に百尺竿頭《ひゃくしゃくかんとう》に一歩を進めた解決をさせたり、月並を離れた活動を演出させたり、篇中の性格を裏返しにして人間の腹の底にはこんな妙なものが潜《ひそ》んで居ると云う事を読者に示そうとするには勢い篇中の人物を度外《どはず》れな境界《きょうがい》に置かねばならない。余裕をなくなさなくってはならない。セッパ詰らせなくってはいけない。そこで大抵は死活問題が出てくる。一世の浮沈問題が持ち上がって来る。(必ずとは云えない。人間は一寸《ちょっと》風を引いたのが動機になって内的生活に一革命を起さぬとは限らぬ。然し大体の傾向はと云うと以上の如くである。)
斯様《かよう》に小説を二つに分けて見た所で虚子の小説はどっちに属するかと云うと先《ま》ず前者即ち余裕のある方面に属すると思う。其余裕のある所が、ある一派の人から見て気に入らぬ所であろうと思われる。だからどんな所に余裕があると云う事を説明したらば、是等の人々の誤解を防いで、幾分か虚子の長所を発揮する方便になるだろうと思う。之《これ》を説明するには例を引くのが早分りである。
文章に低徊趣味《ていかいしゅみ》と云う一種の趣味がある。是は便宜の為め余の製造した言語であるから他人には解り様がなかろうが先《ま》ず一と口に云うと一事に即し一物に倒して、独特もしくは連想の興味を起して、左から眺《なが》めたり右から眺めたりして容易に去り
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