難いと云う風な趣味を指すのである。だから低徊趣味と云わないでも依々趣味、恋々趣味と云ってもよい。所が此趣味は名前のあらわす如く出来る丈《だけ》長く一つ所に佇立《ちょりつ》する趣味であるから一方から云えば容易に進行せぬ趣味である。換言すれば余裕がある人でなければ出来ない趣味である。間人《かんじん》が買物に出ると途中で引かかる。交番の前で鼠《ねずみ》をぶら下げて居る小僧を見たり、天狗連《てんぐれん》の御浚《おさら》えを聴いたりして肝腎《かんじん》の買物は中々弁じない。所が忙がしい人になると、そんな余裕はない。買物に出たら買物が目的である。買物さえ買えば、それで目的は達せられたのである。小説も其通りである。篇中の人物の運命、ことに死ぬるか活きるかと云う運命|丈《だけ》に興味を置いて居ると自然と余裕はなくなってくる。従ってセッパ詰って低徊趣味《ていかいしゅみ》は減じて来る。
 そこで低徊趣味も客観的とか主観的とか区別すれば色々になるが、それは面倒だから暫《しば》らく云わぬとしても、虚子の小説には此余裕から生ずる低徊趣味が多いかと思う。或人は云うかも知らぬ虚子の小説は皆短篇である。所謂《いわゆる》低徊趣味は長篇ならば兎《と》に角《かく》、こんな短かいものにそんな趣味のあらわれる訳がないと。所が事実は反対である。長いものになると、そう単調に進行する事が出来んから、自然だれの作物でも余事が混入してくるし、又|頁《ページ》の数から云っても余裕は出来易《できやす》い。だから長篇ものに所々此趣味が散点して居ても、取り立ててこれが作者の趣味だと言い切る訳には行かない。所が短篇ものになると頁数に限りがある。其限りがあるうちで人の眼につく様に此趣味を出すと云えば作者の嗜好《しこう》は判然として争うべき余地はない。
 虚子の風流懺法《ふうりゅうせんぽう》には子坊主《こぼうず》が出てくる。所が此小坊主がどうしたとか、こうしたとか云うよりも祇園《ぎおん》の茶屋で歌をうたったり、酒を飲んだり、仲居《なかい》が緋《ひ》の前垂《まえだれ》を掛けて居たり、舞子が京都風に帯を結んで居たりするのが眼につく。言葉を換えると、虚子は小坊主の運命がどう変ったとか、どうなって行くとか云う問題よりも妓楼一夕《ぎろういっせき》の光景に深い興味を有《も》って、其光景を思い浮べて恋々たるのである。此光景を虚子と共に味わう気が
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