りが小説になると云う議論がどうして出来る。世の中は広い。広い世の中に住み方も色々ある。其住み方の色々を随縁臨機《ずいえんりんき》に楽しむのも余裕である。観察するのも余裕である。味わうのも余裕である。此等の余裕を待って始めて生ずる事件なり事件に対する情緒なりは矢張《やはり》依然として人生である。活溌々地《かっぱつはっち》の人生である。描く価値もあるし、読む価値もある。触れた小説と同じく小説になる。或人は浅いと云うかも知れない。浅いと云う点に於《おい》ては余も同感である。然《しか》し価値がないと云う意味に於て浅いと云うなら間違って居る。此場合に於ける深いとか浅いとか云うのは色の濃いとか薄いとか云うのと一般で、濃いから上等で薄いから下等と云う評価のつけられる訳のものでは勿論《もちろん》ない如く毫《ごう》も作物を高下する索引にはならないのである。
 護謨《ゴム》を延ばして、今少し引っ張ると切れると云う所迄構わず持って行く。悪いとは云わない。然し此所迄《ここまで》引っ張ってぴんとさせなくっちゃ駄目だよと云うに至っては、緊張の趣は解して居るが雍容《ようよう》の味は解し得ない人だと云われても仕方がない。のびない護謨《ゴム》もゆとりがあって面白いと云う人を屈服させる訳には行かない。
 茶を品し花に灌《そそ》ぐのも余裕である。冗談《じょうだん》を云うのも余裕である。絵画彫刻に間《かん》を遣《や》るのも余裕である。釣《つり》も謡《うたい》も芝居も避暑も湯治も余裕である。日露戦争の永続せざる限り、世間がボルクマンの様な人間で充満しない限りは余裕だらけである。而《しか》して吾人も已《やむ》を得ざる場合の外《ほか》は此余裕を喜ぶものである。従って此等の余裕より生ずる材料は皆小説となって適当である。(喜ぶから小説になると云うと小説は娯楽の為めと云う意味になる。此《これ》を詳《くわ》しく説明しようとすると小説の目的と云う議論になる。機会を見て余は此点に関する自己の意見を述べたいと思うが、今は詳説する遑《いとま》がないから別に云わぬ。只《ただ》小説は娯楽を目的にしてはならぬと云う議論は成立せぬ。従って娯楽も亦《また》小説の一目的として存在し得るものだと許《ばか》り一言して置く。)
 以上は余裕ある小説の説明である。既に余裕ある小説を説明した以上は余裕なき小説も大概其意味が分った筈《はず》であるが。
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