只《ただ》ある人々の唱《とな》える意味に於《おい》て触れない小説と云ったら一番はや分りがするだろうと思って、曖昧ながらわざわざ此字面を拝借したのである。と云うものは、まず字の定義は御互の間に黙契があるとして、ある人々は触れなければ小説にならないと考えて居る。だから余はとくに触れない小説と云う一種の範囲を拵《こし》らえて、触れない小説も亦《また》、触れた小説と同じく存在の権利があるのみならず、同等の成功を収め得るものだと主張するのである。
 触れない小説の意味をもう少し説明しないと余の所存が貫徹しまいと思う。余は自己の考を述べて、こんな風にも小説は解釈が出来るものだと読者から認めて貰《もら》えば好い。喧嘩《けんか》を売る料簡《りょうけん》でもなし、売られた喧嘩《けんか》を買う気もない。従がって思う通りを思う通りに述べて誤解のないように力《つと》めて置かなければならない。
 個人の身の上でも、一国の歴史でも相互の関係(利害問題にせよ、徳義問題にせよ、其他種々な問題)から死活の大事件が起ることがある。すると渾身《こんしん》全国|悉《ことごと》く其事件になり切って仕舞《しま》う。普通の人間の様に行屎走尿《こうしそうにょう》の用は足して居るが、用を足して居るか、居らぬか気が付かぬ位に逆上《のぼ》せて仕舞う。先達《せんだっ》て友人が来てこんな話をした。小田原で暴風雨があった時、村の漁船が二三杯沖へ出て居て、どうしても濤《なみ》を凌《しの》いで磯《いそ》へ帰る事が出来ない。村中一人残らず渚《なぎさ》へ出て焚火《たきび》をして浮きつ沈みつする船を眺《なが》めて居る許《ばか》りである。此方《こちら》から繩を持って波を切って、向うの船へ投げ込んで、其繩を引いて陸へ上げるのが彼等の目的である。がそう思う様に目的は達せられんので晩からかけて翌日の午後の三時頃迄は村中浜へ総出の儘《まま》風の中、雨の中を立ち尽して居た。所が其長時間のうち誰一人として口を利《き》いたものがない又誰一人として握り飯一つ食ったものがないとの事である。こうなると行屎走尿《こうしそうにょう》すら便じなくなる。余裕のない極端になる。大いに触れてくる。同時に眼前焦眉《がんぜんしょうび》の事件以外何にも眼に這入《はい》らなくなる。世界が一本筋になる。平面になる。寝返りも出来ない様に窮屈になる。なっても構わないがそれ許《ばか》
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