つた。余が車屋の黒と知己になつたのはこれからである。[#「。」は底本にはない]
 其後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相當の氣焔を吐く。先に吾輩が耳にしたといふ不徳事件も實は黒から聞いたのである。
 或る日例の如く吾輩と黒は暖かい茶畠の中で寐轉びながら色々雜談をして居ると、彼はいつもの自慢話しを左も新しさうに繰り返したあとで、吾輩に向つて下の如く質問した。「御―め―へは今迄に鼠を何匹とつた事がある」智識は黒よりも餘程發達して居る積りだが腕力と勇氣とに至つては到底黒の比較にはならないと覺悟はして居たものゝ、此問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかつた。けれども事實は事實で詐る譯には行かないから、吾輩は「實はとらう/\と思つてまだ捕らない」と答へた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張つて居る長い髭をびり/\と震はせて非常に笑つた。元來黒は自慢をする丈にどこか足りない所があつて、彼の氣焔を感心した樣に咽喉をころ/\鳴らして謹聽して居れば甚だ御し易い猫である。吾輩は彼と近付になつてから直に此呼吸を飮み込んだから[#「から」は底本では「たら」]此塲合にもなまじい己れを辯護して益形勢をわるくするのも愚である、いつその事彼に自分の手柄話をしやべらして御茶を濁すに若くはないと思案を定めた。そこで大人なしく「君抔は年が年であるから大分とつたらう」とそゝのかして見た。果然彼は墻壁の缺所に吶喊して來た。「たんとでもねえが三四十はとつたらう」とは得意氣なる彼の答であつた。彼は猶語をつゞけて[#「て」は底本では「で」]「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがい―た―ちつてえ奴は手に合はねえ。一度い―た―ちに向つて酷い目に逢つた。」「へえ成程」と相槌を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云ふ。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰の袋を持つて椽の下へ這ひ込んだら御―め―え大きない―た―ちの野郎が面喰つて飛び出したと思ひねえ」「ふん」と感心して見せる。「い―た―ちつてけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。此畜生つて氣で追つかけてとう/\泥溝(どぶ)の中へ追ひ込んだと思ひねえ」「うまく遣つたね」と喝采してやる。「所が御め―えい―ざって―え段になると奴め最後っ屁をこきやがつた。臭えの臭くねえのって夫からってえものはい―た―ちを見ると胸が惡くならあ」彼は是に至つて恰も去年の臭氣を今猶感ずる如く
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