杉垣の上から出たる梧桐の枝を輕く誘つてばら/\と二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はくわつと其眞丸の眼を開いた。今でも記憶して居る。其眼は人間の珍重する琥珀といふものよりも遙かに美しく輝いて居た。彼は身動きもしない。双眸の奧から射る如き光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて。御―め―へは一體何だと云つた。大王にしては少々言葉が卑しいと思つたが何しろ其聲の底に犬をも挫しくべき力が籠つて居るので吾輩は少なからず恐れを抱いた。然し拶挨をしないと險呑だと思つたから「吾輩は猫である。名前はまだない」と可成平氣を裝つて冷然と答へた。然し此時余の心臟は慥かに平時よりも烈しく鼓動して居つた。彼は大に輕蔑せる調子で「何、猫だ?猫が聞いてあきれらあ。全てえ何こに住んでるんだ」隨分傍若無人である。「吾輩はこゝの教師の家に居るのだ」「どうせそんな事だらうと思つた。いやに瘠てるぢやねえか」と大王丈に氣焔を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思はれない。然し其膏切つて肥滿して居る所を見ると御馳走を食つてるらしい、豐かに暮して居るらしい。吾輩は「さう云ふ君は一體誰だい」と聞かざるを得なかつた。「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒は此近邊で知らぬ者なき亂暴猫である。然し車屋丈に強い許りでちつとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になつて居る奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々輕侮の念も生じたのである。吾輩は先づ彼がどの位無學であるかを試して見樣と思つて左の問答をして見た。
「一體車屋と教師とはどつちがえらいだらう。」
「車屋の方が強いた極つて居らあな。御―め―へのう―ちの主人を見ねえ、丸で骨と皮ばかりだぜ。」
「君も車屋の猫丈に大分強さうだ。車屋に居ると御馳走が食へると見えるね。」
「何にお―れなんざ、どこの國へ行つたつて食ひ物に不自由はしねえ積りだ。御―め―へなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻つて居ねえで、ちつと己の後(あと)へくつ付いて來て見ねえ。一と月たゝねえうちに見違へる樣に太れるぜ。」
「追つてさう願ふ事に仕樣。然し家は教師の方が車屋より大きいのに住んで居る樣に思はれる。」
「箆棒め、うちなんかいくら大きくたつて腹の足しになるもんか。」
 彼は大に肝癪に障つた樣子で、寒竹をそいだ樣な耳を頻りとぴく付かせてあらゝかに立ち去
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