る。最早一分も猶豫が出來ぬ仕儀となつたから、不已得失敬して兩足を前へ存分のして、首を低く押し出してあ―あと大なる欠伸をした。さてかうなつて見ると、もう大人しくして居ても仕方がない。どうせ主人の豫定は打ち壞はしたのだから、序に裏へ行つて用を足さうと思つてのそ/\這ひ出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた樣な聲をして、座敷の中から此―馬鹿―野―郎と怒鳴つた。此主人は人を罵るときは必す馬鹿野郎といふのが癖である。外に惡口の言ひ樣を知らないのだから仕方がないが、今迄辛棒した人の氣も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼はりは失敬だと思ふ。それも平生吾輩が彼の脊中へ乘る時に少しは好い顏でもするなら此漫罵も甘んじて受けるが、こつちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立つたのを馬鹿野郎とは酷い。元來人間といふものは自己の力量に慢じて皆んな増長して居る。少し人間より強いものが出て來て窘めてやらなく[#「やらなく」は底本では「やならく」]ては此先どこ迄増長するか分らない。
我儘も此位なら我慢するが余輩は人間の不徳について是よりも數倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
我輩の家の裏に十坪許りの茶園がある。廣くはないが瀟洒(さつぱり)とした心持ち好く日の當る所だ。うちの小供があまり騷いで樂々晝樂[#「晝樂」は底本のまま]の出來ない時や、餘り退屈で腹加減のよくない折抔は、吾輩はいつでも此所へ出て浩然の氣を養ふのが例である。ある小春の穩かな日の二時頃であつたが、吾輩は晝飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本/\臭ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒して其上に大きな猫が前後不覺に寐て居る。彼は吾輩の近付くのも一向心付かざる如く、又心付くも無頓着なる如く、大きな鼾をして長々と體を横へて眠て居る。他の庭内に忍び入りたるものが斯く迄平氣に睡られるものかと、吾輩は竊かに其大膽なる度胸に驚かざるを得なかつた。彼は純粹の黒猫である。僅かに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きら/\する柔毛の間より、眼に見えぬ炎でも燃え出づる樣に思はれた。彼は猫中の大王とも云ふべき程の偉大なる體格を有して居る。吾輩の倍は慥かにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して餘念もなく眺めて居ると、靜かなる小春の風が、
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